アントニオ・パチェコ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 15:31 UTC 版)
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A級タンパでのコーチ時代
(2016年4月16日) |
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基本情報 | |
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国籍 | ![]() |
出身地 | サンティアーゴ・デ・クーバ州パルマ・ソリアーノ |
生年月日 | 1964年6月4日(57歳) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 207 lb =約93.9 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、遊撃手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴
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監督歴
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国際大会 | |
代表チーム | ![]() |
五輪 | 1992年、1996年、2000年 |
この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
金 | 1992 | 野球 |
金 | 1996 | 野球 |
銀 | 2000 | 野球 |
アントニオ・パチェコ・マソー(Antonio Pacheco Massó 1964年6月4日 - )は、キューバの元野球選手。二塁手・遊撃手、右投げ右打ち。
来歴・人物
1980 - 1981シーズンから2001 - 2002シーズンまでキューバ国内リーグセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルのアビスパス・デ・サンティアーゴ・デ・クーバに所属。キューバ代表の主将を務め、オマール・リナレスやオレステス・キンデランとクリーンナップを担った。1983年のパンアメリカン競技大会から代表入りをして、以後2001年までの25の国際大会のうち11で打率4割以上を打つ。守備でも軽々としたフットワークから強い送球で走者を刺す二塁手。
2002年のシーズン中、キンデランとともに社会人野球のシダックスに入団。翌2003年から監督に就任した野村克也の指導の下でキンデランとクリーンアップを打ち、チームの打撃の中核を担った。同年行なわれた第74回都市対抗野球大会では準優勝に貢献したが、その翌月にアキレス腱を痛めてシーズン後半は欠場を余儀なくされ、翌2004年も負傷の影響で前年ほどの活躍はできなかった。同年限りで現役を引退、キューバに帰国。
帰国後、2004 - 2005シーズンから2010 - 2011シーズンまでアビスパス・デ・サンティアーゴ・デ・クーバの監督としてチームを率いる。チームは2004 - 2005シーズン・2006 - 2007シーズン・2007 - 2008シーズンにシリーズ優勝。2008年の北京オリンピックでは代表監督に就任。キューバを銀メダルに導いた。
2011 - 2012シーズンにエンリケ・エステバン・ディアスによって破られるまで、通算最多安打記録(2356本)を保持していた。
エピソード
- 野村はスポーツうるぐすにて「キンデランは天才的な選手であったが、パチェコは頭脳的な選手であった。非常に野球を良く知っている。キューバ代表の監督になることは当時から言っていた」と振り返っている。
- 2003年6月14日に行われた第74回都市対抗野球大会の東京都予選1回戦で(シダックスは東京ガスと対戦)、東京ガスのエースだった内海哲也(この年のドラフト会議で読売ジャイアンツの自由獲得枠により入団し、現在は埼玉西武ライオンズの所属)から追加点となる場外3ランホームランを放っている。
キューバ国内リーグ(選抜リーグ含む)通算打撃成績(22シーズン)
打率.334 出塁率.399 長打率.525 OPS.924
1853試合 7045打数 2356安打(歴代2位) 366二塁打 63三塁打 741四球 77敬遠 73死球 834三振 284本塁打 1304打点(歴代3位)
60盗塁 44盗塁死
リンク
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固有名詞の分類
社会人野球の選手 |
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キューバの野球選手 |
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