アントニオ・パスクアル・デ・ボルボンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アントニオ・パスクアル・デ・ボルボンの意味・解説 

アントニオ・パスクアル・デ・ボルボン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 19:33 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アントニオ・パスクアル・デ・ボルボン
Antonio Pascual de Borbón
ボルボン家
アントニオ・パスクアル王子、フランシスコ・デ・ゴヤ

出生 (1755-12-31) 1755年12月31日
スペイン帝国カゼルタ
死去 (1817-04-20) 1817年4月20日(61歳没)
スペイン王国エル・エスコリアル
埋葬 スペイン王国エル・エスコリアル
配偶者 マリア・アマリア・デ・ボルボン
父親 スペインカルロス3世
母親 マリア・アマリア・フォン・ザクセン
テンプレートを表示

アントニオ・パスクアル・デ・ボルボーン・イ・サホニア(Antonio Pascual de Borbón y Sajonia, 1755年12月31日 - 1817年4月20日)は、スペインの王族、スペイン王子(Infante de España)。スペイン王カルロス3世マリア・アマリア・フォン・ザクセンとの五男で、カルロス4世および両シチリア王フェルディナンド1世の弟。全名はアントニオ・パスクアル・フランシスコ・ハビエル・フアン・ネポムセーノ・アニェージョ・ライムンド・シルベストレ(Antonio Pascual Francisco Javier Juan Nepomuceno Aniello Raimundo Silvestre de Borbón y Sajonia)。

生涯

アントニオはすぐ上の兄ガブリエルと同様、知的で芸術の嗜みのある人文主義者であった。また彼は兄王カルロス4世に容貌が酷似していたという。アントニオは1795年8月25日、40歳の時にカルロス4世の娘で16歳の姪マリア・アマリア(1779年 - 1798年)と結婚したが、アマリア王女は結婚した3年後に、子供をもうけないまま早死した。

宮廷政治においては、アントニオは甥で義弟のアストゥリアス公フェルナンド(後のフェルナンド7世)を応援し、宰相マヌエル・デ・ゴドイを目の敵にしていた。スペイン独立戦争中、アントニオは他のスペイン王家の人々と一緒に、フランスのヴァランセで幽閉生活を送っていた。スペイン独立戦争終結後、絶対王政の熱心な信奉者だったアントニオは、スペインにおける絶対主義体制の再構築を精力的に支えた。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アントニオ・パスクアル・デ・ボルボン」の関連用語

アントニオ・パスクアル・デ・ボルボンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アントニオ・パスクアル・デ・ボルボンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアントニオ・パスクアル・デ・ボルボン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS