アントニオ・パスクアーレ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
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アントニオ・パスクアーレ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(Antonio Pasquale di Borbone-Due Sicilie, 1816年9月23日 パレルモ - 1843年1月12日 ポッツオーリ)は、は南伊両シチリア王国の王族、両シチリア王子。レッチェ伯。
両シチリア王フランチェスコ1世と、その2番目の妻でスペイン王カルロス4世の娘であるマリア・イサベルの間の第7子・四男。1830年、姉マリーア・クリスティーナが母方伯父のスペイン王フェルナンド7世の4人目の妻となり輿入れした際、レッチェ伯は姉の輿入れに同行する両親に連れられ、イタリア、フランスを経由しスペインに向かう長期旅行を経験した[1]。
その年の暮れに父王が死去し、長兄フェルディナンド2世が王位を継承するが、この頃からアントニオの素行が悪化し始める。1832年頃には、まだ16歳のアントニオは女性経験豊富な「女たらし」として有名になっていた[2]。1837年、姪にあたる亡命中のフランス王女ルイーズ・ダルトワとの縁談が持ち上がるが、ルイーズの養母であったアングレーム公爵夫人はアントニオの評判を聞くと縁談を断った[3]。
1842年までに、20代半ばのアントニオは脳卒中による麻痺症状に悩み、健康を害していた。さらにコレラにも罹患したが、回復している。彼はジュリアーノ・イン・カンパーニアに小さな家を所有しており、この家は女たちとの情事を楽しむための隠れ家だった。こうした放縦な生き方が彼の命を奪うことになった。1843年の正月明け、アントニオはポッツオーリで人妻を誘惑し、嫉妬に駆られたその夫に棍棒で撲殺されたのである。この寝取られ夫の犯した犯罪は、王室のスキャンダルを避けるため秘密にされた[4]。
引用・脚注
参考文献
- Acton, Harold. The Last Bourbons of Naples (1825-1861). St Martin's Press. London, 1961.ASIN: B0007DKBAO
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