ルイーズ・ダルトワとは? わかりやすく解説

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ルイーズ・ダルトワ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/27 01:34 UTC 版)

ルイーザ・マリーア
Luisa Maria
パルマ公妃
在位 1849年5月17日 - 1854年3月27日

出生 (1819-09-21) 1819年9月21日
フランス王国、パリ、エリゼ宮
死去 (1864-02-01) 1864年2月1日(44歳没)
オーストリア帝国
ロンバルド=ヴェネト王国ヴェネツィアパラッツォ・ジュスティニアン
埋葬 オーストリア帝国ノヴァ・ゴリツァコスタニエヴィツァ修道院英語版
結婚 1845年11月10日 フロースドルフ城
配偶者 カルロ3世
子女 マルゲリータ
ロベルト1世
アリーチェ
エンリーコ
家名 ブルボン家
父親 シャルル・フェルディナン・ダルトワ
母親 マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン
宗教 キリスト教カトリック教会
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ルイーズ・マリー・テレーズ・ダルトワフランス語: Louise Marie Thérèse d'Artois, 1819年9月21日 - 1864年2月1日)は復古ブルボン朝期のフランス王族で、パルマカルロ3世の妃。

イタリア語名はルイーザ・マリーア・ディ・ボルボーネ=フランチアLuisa Maria di Borbone-Francia)。

生涯

シャルル10世の次男シャルル・フェルディナン・ダルトワとその妻で両シチリアフランチェスコ1世の娘であるマリー・カロリーヌの間の長女としてパリのエリゼ宮で生まれた。弟はフランス王位請求者アンリ・ダルトワ(シャンボール伯)。

1830年七月革命勃発後、祖父シャルル10世、伯父アングレーム公夫妻、弟アンリらと共にフランスから亡命した。母マリー・カロリーヌは1832年ルイ・フィリップ1世を追い落として息子アンリを王位につけようとクーデターを起こそうとした際に逮捕され、エットーレ・ルケージ・パッリ伯爵との秘密結婚が明らかとなり、それに怒ったシャルル10世によりブルボン家から縁を切られた。そのため、ルイーズとアンリは幼い頃から懐いていた伯母のアングレーム公夫人マリー・テレーズに養育された。

1845年に亡命先のゴリツィアのグラッファンベルク城からパルマ公カルロ3世に嫁ぎ、最後のパルマ公ロベルト1世など4人の子供をもうけた。

1854年に夫カルロ3世が暗殺された後、息子ロベルト1世の摂政となるが、1859年に起こった第二次イタリア独立戦争により、息子とともにその地位を追われると、オーストリアの保護を求めてヴェネツィアに逃がれた。その後、様々な復権運動が起きたものの、全て失敗に終わり、1864年にヴェネツィアのパラッツォ・ジュスティニアンで死去した。

子女

参考文献

  • 『マリー・テレーズ』スーザン・ネーゲル著 櫻井郁恵訳(近代文芸社、2009年)

外部リンク

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ルイーズ・ダルトワ

1819年9月21日 - 1864年2月1日

王室の称号
先代
マリーア・テレーザ・ディ・サヴォイア
パルマ公妃
1849年5月17日 – 1854年3月27日
次代
マリーア・ピア・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(名目上)




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