サノク戦区における「ホルスト・ヴェッセル」師団との合流
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「アンリ・フネ」の記事における「サノク戦区における「ホルスト・ヴェッセル」師団との合流」の解説
1944年8月5日、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊はポーランド南東部(ガリツィア地方)の街トゥルカ (Turka) へ到着し、数日後には最前線のサノク (Sanok) でソビエト赤軍と交戦中の第18SS義勇装甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴェッセル」(18. SS-Freiw.Pz.Gren.Div. „Horst Wessel“) と合流した。 「ホルスト・ヴェッセル」師団長アウグスト=ヴィルヘルム・トラバントSS上級大佐 (SS-Obf. August-Wilhelm Trabandt) から戦況を説明されたフランス人義勇兵たちは直ちに展開し、アンリ・フネSS義勇中尉の第3中隊が先陣を務めることとなった。この時の第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊の編成は次の通り。 第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊 (Ier bataillon / 8. Französische-SS-Freiwilligen-Sturmbrigade):1944年8月 ガリツィアの戦い 大隊長 ピエール・カンスSS義勇大尉 (SS-Frw. Hstuf. Pierre Cance) 第1中隊 ノエル・ド・ティソSS義勇中尉 (SS-Frw. Ostuf. Noël de Tissot) 第2中隊 レオン・ゴーティエSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Léon Gaultier) → イヴァン・バルトロメイSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Ivan Bartolomei) 第3中隊 アンリ・フネSS義勇中尉 (SS-Frw. Ostuf. Henri Fenet) 第5中隊 ポール・プレベSS義勇中尉 (SS-Frw. Ostuf. Paul Pleyber)対戦車砲小隊 アンリ・クライスSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. StdObJu. Henri Kreis) 戦車破壊班 アベル・シャピィSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. StdObJu. Abel Chapy) 第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊第3中隊 (3ème compagnie / Ier bataillon / 8. Französische-SS-Freiwilligen-Sturmbrigade):1944年8月 ガリツィア・サノク戦区 中隊長 アンリ・フネSS義勇中尉 (SS-Frw. Ostuf. Henri Fenet) 第1小隊長 ロベール・ランベールSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Robert Lambert)(〜8月16日)→ マックス・キカンポアSS義勇伍長 (SS-Frw. Uscha. Max Quiquempoix) 第2小隊長 ロベール・ランベールSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Robert Lambert)(時期不明) 第3小隊長 ポール・デルサールSS義勇伍長 (SS-Frw. Uscha. Paul Delsart) 第4小隊長 シャルル・ラシェSS義勇連隊付上級士官候補生 (SS-Frw. StdObJu. Charles Laschett)補佐 ピエール・クーヴルSS義勇曹長 (SS-Frw. Oscha. Pierre Couvreur) 第3中隊の行動開始は8月9日とされ、それまでにフネはパンツァーファウスト(携帯対戦車擲弾発射器)の安全な使用法を兵に教えておくよう下士官に頼んだ。パンツァーファウスト使用練習中に近隣のドイツ陸軍部隊がネーベルヴェルファー(多連装ロケットランチャー)で前線への砲撃を開始した時、それまでネーベルヴェルファー独特の発射音を聞いたことがなかった武装親衛隊フランス人義勇兵たちが何事かと驚いて地面に伏せるという一幕もあった。 1944年8月9日午後、左側面の友軍部隊と連絡を取るように命じられたフネの第3中隊は前進を開始した。その途中で彼らは遮蔽物が一切無い野原に進んで赤軍の銃撃と迫撃砲攻撃を受けたが、フネと彼の兵は訓練の様にジグザグ走行で突き進み、軽傷者2名というごくわずかな損害だけで前進に成功した。 左側面の友軍部隊と連絡をつけたフネは周囲の状況を探るため、ロベール・ランベールSS義勇少尉率いる第1小隊の中から選んだ斥候を派遣した。やがて戻ってきた斥候の報告によると、周囲はその数を増やしている赤軍部隊で溢れているという。そして夜になり、フネはさらなる斥候を派遣した。 翌日の朝、近くの村を偵察していた第1小隊のジルベール・ドラットルSS義勇上等兵 (SS-Frw. Strmm. Gilbert Delattre) が村の塔の中の敵兵に狙撃され、第8フランスSS義勇突撃旅団最初の戦死者となった。狙撃兵の銃火が止んだ後に斥候隊が連れ帰ったドラットルの遺体は第1小隊長ランベールSS義勇少尉 によって埋葬された。 この頃、フネの第3中隊のみならず第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊の全部隊が前線に入っており、彼らは行く先々の村で赤軍と神出鬼没のパルチザンの脅威にさらされていた。 8月12日、「ホルスト・ヴェッセル」師団第40SS装甲擲弾兵連隊長エルンスト・シェーファーSS少佐 (SS-Stubaf. Ernst Schäfer) 率いる「シェーファー」戦闘団 (Kampfgruppe „Schäfer“) と第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊は、クラクフ〜サノク間の鉄道線路に沿った敵戦線への攻撃を開始した。この時、フネの第3中隊は第I大隊の右側面および「シェーファー」戦闘団の左側面の援護を委ねられた。友軍部隊の援護のために前進して布陣することは敵の榴弾砲および迫撃砲の攻撃を受けることを意味していたが、フネの第3中隊は屈することなく友軍の援護射撃を継続した。そして同日、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊は「ホルスト・ヴェッセル」師団の特報および国防軍軍報 (Wehrmachtbericht) にその名が記載された。しかし、8月16日にはサノク戦区が赤軍に包囲されたため、第8フランスSS義勇突撃旅団第I大隊および他のSS部隊は後方のドイツ国防軍戦区まで後退した。
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