ゴッテスガーベ製塩所
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「ライネ (ミュンスターラント)」の記事における「ゴッテスガーベ製塩所」の解説
ベントラーゲでは、1022年からすでに塩の採取が行われていた。ゴッテスガーベ製塩所に関する最初の文献記録は1439年のものである。この製塩所は産業文化財に指定されており、ベントラーゲ修道院のすぐ隣に位置している。この製塩所は、ベントラーガー・ドライクラングの塩ルート上にあり、ガイド付きで見学できる。 1437年から1577年までこの製塩所は聖十字架修道会によって運営されていた。1577年8月5日の契約によってこの製塩施設はフェーレン家にレーエンとして移管された。しかし当初は市の採取で経済的利益を得ることはできなかった。1590年にオランダからヴェストファーレンに侵攻してきた王=スペイン軍によってこの製塩所は破壊された。 1603年から1614年までこの製塩所は、アレクサンダー・フォン・フェーレンの指導下で、5人の裕福なライネ市民の出資を受け、経済的発展を遂げた。アレクサンダー・フォン・フェーレンは新たに含量の高い塩井を発見し、ゴッテスガーベ(神の恩寵)という名を与えた。しかし1614年以降、燃料やその他の原料不足から再び経済的衰退に陥った。 三十年戦争でこの製塩は、さらに甚大な被害を受けた。ケーニヒスマルク将軍(ドイツ語版、英語版)の命を受けたスウェーデン軍が1647年に修道院を焼き討ちし、製塩所を襲撃した。その後、フェーレン家によって運営は続けられたが、損害と資金不足から利益を得ることはできなかった。1735年、当時のミュンスターの司教領主クレメンス・アウグストによってこのレーエンは解消された。 この司教領主は自ら製塩の再構築を行い、1743年12月23日にミュンスター製塩協会を設立した。この協会は、ベントラーゲの塩井全体の使用権を有した。司教領の建築士ヨハン・コンラート・シュラウン(ドイツ語版、英語版)と製塩専門家のヨアヒム・フリードリヒ・フォンボイスト男爵の指導下で製塩所は根本的に近代化された。これにより枝条架装置も全長約300 m に拡張された。ゴッテスガーベ製塩所はこの種のものとしてはヴェストファーレンで最も古い建築物である。 塩の生産は、18世紀を通して利益を上げた。1753年に持ち分あたり50帝国ターラーの配当を初めて計上した。1890年には、製塩業に加えて、鉱泉・保養業にも着手した。鉱泉業は1975年まで維持されていた。製塩業はそれ以前の1952年に廃止された。 「レギオナーレ 2004」に伴ってザリーネンパルク(製塩公園)が新たに整備された。これは、欧州庭園遺産ネットワークの一部となっている。製塩所近くに2005年、作家ヨーゼフ・ヴィンクラーの生家がヨーゼフ・ヴィンクラー博物館として開館した。ここにはこの作家の生活に用いられた文物や彼の作品に関する情報が展示されている。
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