グリンダヴィーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 15:34 UTC 版)
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グリンダヴィーク
Grindavík
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基礎自治体
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基礎自治体の管轄域
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| 北緯63度50分 西経22度26分 / 北緯63.833度 西経22.433度 | ||
| 国 | |
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| 地方 | 南西アイスランド | |
| 面積 | ||
| • 合計 | 164 mi2 (425 km2) | |
| 人口
(2008年)
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| • 合計 | 2,817人 | |
| • 密度 | 16.8人/mi2 (6.49人/km2) | |
| 等時帯 | UTC+0 (グリニッジ標準時) | |
| 郵便番号 |
240
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| ウェブサイト | www.grindavik.is | |
グリンダヴィーク(アイスランド語: Grindavík アイスランド語発音: [ˈkrɪntaˌviːk] (
音声ファイル))は、アイスランド南西部のレイキャネース半島南岸に位置する漁師町。3000人の住民のほとんどが漁業に従事している。市街から5kmほど郊外には有名な「ブルーラグーン」がある。
歴史
『植民の書』には934年ごろ、モルダ=グヌープー・フォルフソンとテョリル・ハウストミルクー・ヴィビョーズソンの2人のヴァイキングがレイキャネース地域に入植し、テョリルがセルヴォイを、モルダ=グヌープーがグリンダヴィークをそれぞれ建設したとある。さらにモルダ=グヌープーの息子らがテョルカートルスタザクェルフィー、ヤルンギェルザルスタザルクェルフィー、スタザルクェルフィーの3箇所の入植地を築いたが、現在のグリンダヴィークはヤルンギェルザルスタザルクェルフィーに位置する。
自治体としてはエイナル・エイナルソンがこの地に移り、店を開いた1897年までその起源をたどることができる。当時の人口は360人ほどであった。住民は何世紀にもわたり漁労で暮らしてきたが、航海には大変な危険が伴った。漁師が海に落ちることも度々あったが、引き上げられるとは限らなかった。しかし、1939年にホーピズから陸路が通じると漁労環境は劇的に変わった。1950年から漁業開発が進み、1974年に自治体を宣した。
2023年11月10日の夜、Almannavarnirは、グリンダヴィーク付近で噴火が発生する可能性があることから、即時の避難命令を発表した[1]。町の直下にマグマが貫入してきたことによる地殻変動により、一部区画の電気・水道・道路といったライフラインが破壊された[2]。12月18日22時17分から町の北約5kmの古いクレーター帯 (Sundhnúkaクレーター)から噴火開始[3]。2024年1月14日に再噴火[4][5]。
アクティビティ
市街から少し北へ行くと、「ブルーラグーン」という天然温泉がある。これは近くのスヴァルスエインギ地熱発電所から流れる熱水を利用している。
UMFGというスポーツクラブがある。
ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界になっているアルファーヤ地溝帯には、2002年に「幸運なるレイフ橋」が開通した。橋の名はクリストファー・コロンブスの新大陸発見から500年も前にヨーロッパから北アメリカ大陸へ渡ったレイフ・エリクソンを記念している。
また、2002年9月にはアイスランド塩漬け魚博物館も開館した。650平方メートルの敷地内にはアイスランド経済の支柱である魚の塩漬けの過程が展示されている。
ゆかりの人物
作家のグドベルグー・ベルグッソンはこの地で生まれた。音楽オーディション番組『ポップアイドル』アイルランド版の初代優勝者カリ・ビャルニもこの町に暮らしている。
姉妹都市
脚注
- ^ “Grindavík verður rýmd”. dv.is 2023年11月11日閲覧。
- ^ “Dreifikerfið í Grindavík víða laskað”. mbl.is 2023年11月12日閲覧。
- ^ “Volcano erupts in south-west Iceland”. BBC 2023年12月19日閲覧。
- ^ “アイスランドで再び噴火 住民は事前に避難も 溶岩が町に迫る | NHK”. NHKニュース (2024年1月14日). 2024年1月14日閲覧。
- ^ Jónsdóttir, Kristín Ólafsdóttir,Atli Ísleifsson,Árni Sæberg,Margrét Björk (2024年1月14日). “Vaktin: Hraun hefur náð byggð - Vísir” (アイスランド語). visir.is. 2024年1月14日閲覧。
関連項目
外部リンク
グリンダヴィーク
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「ヤン・ヤンスゾーン」の記事における「グリンダヴィーク」の解説
1627年、ヤンスゾーンはアイスランドに遠征し、南西の漁村グリンダヴィークを略奪した。この時彼は捕獲されたデンマーク船の乗組員だったデンマーク人奴隷に案内させていた。獲得物は僅かな塩漬け魚など貧相だったが、12人のアイスランド人と3人のデンマーク人を捕虜とすることに成功した。グリンダヴィークを離れる際、通りかかったデンマーク商人の船を旗の偽装によって襲撃し、捕獲した。[要出典] 艦隊はデンマークの政庁があるベッサスタージルの襲撃を試みたが、要塞からの砲撃に妨害されているうちに南西アイスランドから精鋭槍騎兵部隊が駆け付けたため、ヤンスゾーンは上陸を断念した。艦隊はサレへ引き返し、捕虜を奴隷として売り飛ばした。 7月4日、ヤンスゾーンについてきた2隻のアルジェ海賊船がアイスランドを襲撃した。さらにヴェストマン諸島に移動し、ここを3日間略奪した。これらの事件は、アイスランドでは「トルコによる拉致」(アイスランド語: Tyrkjaránið)) として知られている(当時のバルバリア海賊の拠点がオスマン帝国の支配領域にあったため)。 この時奴隷にされ、コルセア船に載せられたアイスランド人が後に残した証言によれば、女性や子供の扱いはひどくなく、船尾甲板を除けば船内を自由に動き回ることができた。海賊が自分の食料を子供たちに余分に与えることもあった。ある女性が船上で出産した際には、その女性のプライバシーは守られ十分な衣服も与えられた。男性は貨物室に押し込められたが、陸地から十分に離れた後には鎖を解かれた。このアイスランド人たちは、捕虜に対する性的暴行があったという証言はしていない。グズリーズ・シーモナルドッティルなど数人の捕虜がアイスランドに帰還できたことが知られている。
※この「グリンダヴィーク」の解説は、「ヤン・ヤンスゾーン」の解説の一部です。
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