グリンダイオー
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グリンダイオー | |
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品種 | アングロアラブ |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1987年5月8日 |
父 | トライバルセンプー |
母 | ベストマロツト |
母の父 | アサヒマロツト |
生国 | ![]() |
生産 | 門別賢一 |
馬主 | 遊佐繁雄 |
調教師 | 菅原末治(宇都宮) 千同武治(福山) 千葉博次(水沢) |
競走成績 | |
生涯成績 | 38戦21勝 |
獲得賞金 | 86,871,000円 |
来歴
1989年6月10日、宇都宮競馬場(以下、宇都宮)でデビューし初勝利を挙げたものの、以後は2勝しかできず、条件級馬に甘んじていた。
ところが、1990年4月8日の宇都宮での一戦後、福山競馬場(以下、福山)に転厩するや、同年5月13日のアラブ4歳(福山)を皮切りに何と12連勝を果たした。8連勝中で迎えた同年11月4日の鞆の浦賞(福山)が重賞初挑戦となり、同年の楠賞全日本アラブ優駿(園田競馬場)を制した、同じ父を持つムサシボウホマレとの対戦となったが、2着のムサシボウに6馬身の差をつけ圧勝。続く同年12月2日の西日本アラブダービー(福山)でも、ムサシボウ(2着)に3馬身の差をつけ10連勝を果たした。さらに同年12月23日に行われたアラブ王冠(福山)でも7馬身の差をつけ、三度ムサシボウ(2着)に完勝。そして、12連勝がかかった1991年1月6日の福山大賞典(福山)も、2着のキタノテイモオーに6馬身の差をつけて圧勝した。
1991年1月28日のA1特別(福山)でこそ、ナルミトウザイにクビ差及ばず2着と惜敗し、連勝記録はストップしたが、続く同年3月10日に行われた西日本アラブ大賞典(佐賀競馬場、以下 佐賀)では、キタノテイモオーを半馬身差制し優勝。ついに遠征での重賞制覇も果たした。しかし、佐賀での勝利以後、地元福山での重賞を取りこぼすようになり、その後4勝したものの、重賞勝ちは同年11月17日に行われた福山菊花賞(福山)だけにとどまった。それでも、福山菊花賞を勝ったことで、ローゼンホーマの再来を期待すべく、同年12月5日の全日本アラブ大賞典(大井競馬場)に挑むことになった。ところが、3番人気に支持されたものの、まさかのしんがり(14着)負けを喫してしまった。
1992年は1月5日の福山大賞典(福山)から始動したが、1番人気に応え同レース連覇を果たした。そしてこちらも連覇を狙った西日本アラブ大賞典(佐賀)に出走したが、6着に敗退。その後脚部不安が発生したため、半年間の休養を余儀なくされた。しかし、同年9月27日のA1特別(福山)に出走したものの6着。しかもその後、またもや脚部不安が出て10か月間の休養を余儀なくされ、1993年7月11日のA1特別(福山)に出走したものの、実質最下位の8着に終わった。
その後福山を後にし、水沢競馬場に転厩したものの、ここでは出走機会を得られぬまま引退を余儀なくされた。
引退後は種牡馬となった。主な産駒として、鞆の浦賞、アラブ王冠(いずれも福山)を勝ったマルサンダイオー、中京スポーツ杯(笠松)を勝ったハンサムバロンなどが挙げられる。
外部リンク
- 競走馬成績と情報 netkeiba、KEIBA.GO.JP、JBISサーチ
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