ギャングの組織化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 20:11 UTC 版)
「ジュゼッペ・モレロ」の記事における「ギャングの組織化」の解説
1900年、ブルックリンで偽札(5ドル紙幣)が出回り、同年6月11日、連邦シークレットサービス(USSS)に逮捕されたが、証拠なく放免された。この頃から、リトルイタリー中心にシチリア系の犯罪者を集め、ギャングを組織し始めた。パレルモ出身のイニャツィオ・ルポと強力なタッグを組んだ。周辺一帯を支配していたカラブリア系のダゴスティーノ・ギャングをリトルイタリーから追い出し、非合法活動のベースとした。スタントン・ストリートでスパゲティ屋を開店したほか、プリンス・ストリートの酒場を手に入れ、アジトにした。隣がルポの店だった。1901年9月、ヴィト・カッショ・フェロが渡米し、モレロと接触した。 1902年、イタリアで印刷した5ドル紙幣を、オリーブオイルの空き缶に詰めてニューヨークに運び、各地に分散して流通させた。前回より紙質が良く、より精巧に仕上がっていた。偽札が再び移民居住区で出回り、USSSはモレロの仕業と見た。1902年7月23日、組織のメンバーでブルックリンの雑貨商のジュゼッペ・カターニアが袋詰めにされた遺体で見つかり、両耳の根元まで喉を掻き切られていた。警察は、紙幣偽造に絡んだモレロによる口封じと見たが、証拠なく起訴を見送った。 1902年12月、不動産会社を立ち上げ、ビル建設や資材の販売、建てた家のリースを始めた。モレロ、マルコ・マカルーソ、アントニオ・ミローネなどが役員に名を連ねた。会社の株券を広くイタリア移民に買わせた。実態は投資詐欺で、偽札を会社の株の配当の支払に使い、株主には配当の即時処分を義務付けて、当局の追跡を遮断した。金回りが良くなり、靴屋や理髪屋など商売を広げて犯罪の隠れ蓑に使った。 USSSは、大量のオリーブオイルを輸入していたあるイタリア系の卸売貿易商がルポやモレロと知り合いである事実を突き止め、その貿易商の資材倉庫を、輸入船が到着したタイミングで抜き打ち検査を実行し、搬入されたオリーブ缶に偽造紙幣が詰まっているのを発見した。紙幣はナポリで刷られ、仲間の貿易商を介してルポとモレロの手に渡っていた。貿易商やその仲間は取り調べに対しモレロとのつながりを否定したが、それ以後当局に尾行された。1908年までに刷った偽造紙幣は数十万ドルに及んだという。 1903年4月、バレルマーダー事件でメンバー11人と共にニューヨーク市警に逮捕された。1902年12月31日、モレロの紙幣偽造団のジュゼッペ・ディプリモら3人がUSSSに尾行された末、ヨンカーズで偽札使用の現行犯で検挙されたが、翌年2月に懲役4年で収監されたディプリモはモレロの元へ親族のベネディット・マドニアを派遣し、資金の工面を求めた。モレロ一味はマドニアと議論の末、仲間のパン屋に誘い込んで殺害し、木の樽に詰め、空き地に遺棄した。新聞はその残虐な殺しぶりを「バレル・マーダー(木の樽殺し)」と呼び、大々的に報じた。多くの状況証拠があったにも関わらず、モレロ以下全員が証拠不十分で放免された。 ロウアー・イースト・サイドのクリスティ・ストリートに住んでいた。妻とは1898年に死に別れ(一説にマラリア)、1903年9月、異父妹ルーシアがシチリアから連れてきたニコリナ・サレミと再婚した。のち実母やテラノヴァ兄弟が住んでいたイーストハーレム107丁目に引っ越した。同年ルポがモレロの異父妹(テラノヴァ3兄弟の実姉)と結婚し、モレロとの結びつきを強化した。
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