ギャングと違法ギャンブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 16:10 UTC 版)
「ホットスプリングス (アーカンソー州)」の記事における「ギャングと違法ギャンブル」の解説
こうして市名が示す通り、温泉と共に保養地として、そしてリゾート地として発展を遂げてきたホットスプリングスであったが、その裏には黒い歴史もあった。 ホットスプリングスにおけるギャンブルの歴史は1849年に遡る。1860年代には、ファロ、ルーレット、モンテバンク、キノなどでのギャンブルが市内の酒場やホテルで公然と行われていた。しかし、ギャンブルを「職業」とし旅行者から金を巻き上げる者が出てきたり、ギャンブルがらみの暴力事件が多発したりと、治安が著しく悪化した。19世紀後半にホットスプリングスを牛耳っていたフリン家とドラン家はギャンブルの権利をめぐって争いを繰り返していた。やがてその争いは1899年、市警察官と郡保安官が対立しての市街地での銃撃戦に至った。 1890年代、それまで公然と営業していた賭博場や売春宿に対し、市当局は罰金を課すという手立てに出たが、効果はあまり出ず、その後も会員制クラブなどで違法ギャンブルが行われていた。20世紀に入ると、市の法執行は長期政権となっていた市長レオ・P・マクラフリンとそのマシーンに牛耳られ、市警察官や市長自身までもが違法ギャンブルを見逃し、あるいは自ら手を染めていたほどの事態であった。 20世紀前半、市政の腐敗に加えて、ホットスプリングスの街にはギャングもはびこっていた。シカゴの暗黒街のボス、アル・カポネは、ホットスプリングスきっての高級ホテルであったアーリントン・ホテルを潜伏先の1つにしていた。ニューヨークを追われたオウニー・マドゥンは、1935年にホットスプリングスにたどり着き、この地にカジノを備えたホテル・アーカンソーを建てた。その後もトーマス・デューイに追われたラッキー・ルチアーノがこの地に逃げ延びてマドゥンにかくまわれるなど、全米の「お尋ね者」が次々とホットスプリングスに流れ着いた。 第二次世界大戦が終わると、帰還兵の1人で元海兵隊中佐のシド・マクマスを中心に、ホットスプリングスの街を「浄化」する動きが始まった。この動きの中でマクラフリンは裁判にかけられ、また横行していた違法ギャンブルは無くなりこそしなかったものの影を潜めるようになった。この動きは1960年代に入り、ウィンスロップ・ロックフェラーに引き継がれた。ロックフェラーは1963年にアーカンソー州知事選に立候補し、一度は敗れたが、1966年に州知事に就任し、翌1967年に州警察を動員して違法カジノをすべて閉鎖し、ギャンブル道具を焼却処分した。その結果、オークローンパーク競馬場だけが合法ギャンブル施設として残った。
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