カトリック教会との同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「カトリック教会との同盟」の解説
詳細は「ラテラノ条約」および「ヴァチカン市国」を参照 リソルジメントによる教皇領廃止と普仏戦争時のローマ遷都後、サヴォイア家の王族への破門が行われるなどイタリア政府とローマ教皇庁は対立関係にあった。ムッソリーニは無神論者であったが、カトリック系政治勢力を全体主義体制に組み込むべく以前から和解交渉を続けていた。独裁体制確立後の1929年2月に教皇庁国務長官のピエトロ・ガスパッリ枢機卿の仲介でラテラーノ条約が締結された。条約は二つの協定に分かれ、一つ目はイタリアとローマ・カトリックの和解案であった。ローマ教皇ピウス11世はサヴォイア家による教皇領国家の廃止を受け入れてイタリア王国を承認し、対するイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は教皇領廃止の補償金を教皇庁に支払い、また教皇が居住するヴァチカン市における教会の自治権を承認した。これによってイタリア王国とローマ教皇庁との対立に終止符が打たれると共にヴァチカン市国が新たに成立した。 二つ目の協定はコンコルダート(政教条約)に関する内容であり、建国以来の反教権主義を取り下げて教会での婚姻、義務教育における宗教教育、ローマ教会の青年組織であるカトリック青年団の活動など、これまで公的に非公認の状態であったイタリア国内での布教活動の再開が認められた。カトリック系勢力との和解でキリスト教民主主義やキリスト教社会主義などのカトリック系政治運動もファシズムに取り込まれた。しかし本質的にキリスト教を蔑視していたムッソリーニはカトリック青年団をファシスト党青年団のバリッラ団へ統合する様に圧力を掛けるなど、その後も水面下での対立関係は継続した。 北アフリカなどでのイスラム教勢力に対しては常に友好的に接して、ファシスト党がイスラム教の庇護者であると宣伝した。
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