カチューシャと革新映画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 01:27 UTC 版)
「日活向島撮影所」の記事における「カチューシャと革新映画」の解説
1914年(大正3年)に入るとますます日活は欠乏し、経費節減で新作の製作を抑えにかかった。同撮影所では、吉沢商店時代に佐藤紅緑や藤沢浅次郎の薫陶を受けて自由に育った演出部の小口、桝本、俳優部の関根、立花らは新しい表現を目指した。同年3月に島村抱月の芸術座が公演した、レフ・トルストイの小説『復活』の新劇への翻案が脚光を浴び、松井須磨子が劇中で歌った『カチューシャの唄』は一世を風靡した。そこで桝本が脚本を書き、小口が演出し、関根がネフリュードフ、女形の立花がカチューシャを演じた『カチューシャ』が生まれた。同作は同撮影所始まって以来の大ヒットとなり、翌1915年(大正4年)早々、続編が製作・封切られた。 1917年(大正6年)、演出部に田中栄三、俳優部に東猛夫、山本嘉一、藤野秀夫、衣笠貞之助が入社した。新劇出身の田中、山本は、脚本部の桝本と同志的結合を結び、1918年(大正7年)、再びトルストイを原作に『生ける屍』を生み出した。田中の監督デビュー第2作である。当時、アヴァンタイトルに監督名のクレジットは入っていなかったが、イタリア映画を真似て、同作にはクレジットが入った。同作は向島の「革新映画」の第1作とされる。スター女形の立花貞二郎が、同作のリイザ役を最後に同年11月11日、満25歳で死去した。 1921年(大正10年)の正月興行から、同撮影所に「第三部」が設置され、中山歌子、酒井米子ら「女優」をフィーチャーした映画を製作、公開した。前年に松竹キネマが小山内薫の新劇に裏打ちされた映画を製作し始め、日本映画に女優の歴史が始まったからである。第1作は、1920年(大正9年)12月31日公開の田中栄三監督作品『朝日さす前』である。日活本社は第三部の興行のフラッグシップに東京・赤坂の洋画専門館葵館をブッキングしたが、中山らは新派出身の芝居をする女優であり、作品に革新の意思は存在したものの、新派の延長線上の作品はマーケットに合わず、早晩に敗退した。
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