エヴァンスの有罪判決をくつがえす運動
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「エヴァンス事件」の記事における「エヴァンスの有罪判決をくつがえす運動」の解説
1955年、『ザ・オブザーヴァー』(The Observer)の編集者であるデヴィッド・アスター(David Astor)、『ザ・スペクテーター』の編集者である、『ザ・ナショナル・アンド・イングリッシュ・レヴューオブザーヴァー』(The National and English Review)の編集者であるジョン・グリッグ(John Grigg)および『ザ・ヨークシャー・ポスト』(The Yorkshire Post)の編集者であるサー・リントン・アンドリュース(Sir Lynton Andrews)は、スコット・ヘンダーソンの調査の結論にたいする不満足のために、内務大臣にあらたな調査を求める請願の代表団を結成した。同年、事務弁護士マイケル・エダウズは、事件を調査し、本『The Man on Your Conscience』を書いたが、これはエヴァンスが殺人者であったはずがないと主張した。テレヴィジョン・ジャーナリストであるルードーヴィック・ケネディの著書『Ten Rillington Place』は、エヴァンスが有罪と評決された1950年の公判で提出された警察の捜査と証拠を批判した。これは、別の議会における議論を生んだが、いまだなお2回目の調査はない。 1965年、自由党の政治家である、ダーラム郡(County Durham)のダーリントン(Darlington)のハーバート・ウルフ(Herbert Wolfe)は、『The Northern Echo』の編集者であるハロルド・エヴァンス(Harold Evans)(関係は無い)と接触した。彼とケネディは、ティモシー・エヴァンズ委員会(the Timothy Evans Committee)を結成した。期間が延長された運動の結論は、内務大臣であるフランク・ソスキス(Frank Soskice)は、1965年から1966年の高等法院裁判官(High Court judge)であるサー・ダニエル・ブラビン(Sir Daniel Brabin)長としてあらたな調査を命じたというものであった。ブラビンは、エヴァンスが妻を殺害したということと、彼は娘を殺害しなかったということは「そうでないよりも蓋然的である」(more probable than not)と考えた。これは、エヴァンスの公判における検察側主張と反対であったが、これは両者の殺害が同一人物によって単一の事件として実行されたと考えた。複数の犠牲者の複数の死体は、同一地でいっしょに見つけられ、絞扼で同じふうに殺害されていた。不当な結論にもかかわらず、ブラビンの捜査は、証拠の破棄のような、エヴァンス事件のあいだじゅうの警察の不当行為を曝露した。たとえば、ジェラルディンを絞殺するのに使用されたネク・タイはそれじたい、1953年のクリスティの犯罪の露顕の前に、警察によって破棄された。破棄が記録されねばならなかった記録書そのものでさえ、警察によって破棄された。きわめて重大な事件において、警察はすべての物的証拠および証拠書類を保存しておかなければならないから、この事件における証拠の移動は、不審の念を起こさせる。多くの警察の供述は矛盾し、最初の殺人事件の鍵となる証人、とくにクリスティ家のひとびとの事情聴取の日付と時間に関しては混乱していた。ブラビンは、徹底的に、どこでも可能であるところでは警察の証拠を提出したり、そして警察の(取調べちゅうのエヴァンスに対する暴力をふるうぞという脅迫のような) たりしたし、そして彼は、エヴァンスによってなされたと主張される告白のうちいくつかのものの有効性についてケネディによってなされた主張には取り組まなかった。彼は、リリントン・プレースの庭の捜索における警察の無能力を決して考慮しなかったし、法医学的な証拠の重要性の理解は浅かった。調査は、事件から生じる多くの係争点を解決するにはほとんどなにもしなかったが、エヴァンスの、子を殺したという嫌疑を晴らすことによって、その後の諸事件においては決定的であった。 エヴァンスは、娘の殺害について有罪にされたにすぎなかったから、ソスキスの次の内務大臣であるロイ・ジェンキンス(Roy Jenkins)は、王による恩赦を勧告したが、それは1966年に与えられた。1965年、エヴァンスの遺物は、ペントンヴィル刑務所(Pentonville Prison)から掘り出され、大ロンドンのレートンストーン(Leytonstone)のセント・パトリックス・ローマ・カトリック墓地 (St Patrick's Roman Catholic Cemetery)に再埋葬された。エヴァンスの事件についての抗議は、英国における死刑の停止、それから廃止の一因となった。 2004年11月16日、ウェストレークは、エヴァンスの有罪判決を正式に破棄する控訴院(Court of Appeal)には彼の事件を付託しないという刑事事件再審査委員会(Criminal Cases Review Commission)による決定をくつがえすために高等法院(High Court)への上訴を始めた。彼女は、エヴァンスの恩赦は、彼の娘の殺害の有罪判決を正式に抹消していないと主張したし、ブラビンの報告は、エヴァンスは十中八九、娘を殺害しなかったと結論づけたけれども、それは彼が無実であるとは断言しなかった。報告はまた、エヴァンスは十中八九、妻を殺害したという、「潰滅的な」(devastating)結論をもふくんでいた。事件を付託してほしいという要求は、2004年11月19日に、却下されたが、そのとき裁判官らは、エヴァンスは妻をも子をも殺害しなかったということを実際に容認したけれども、有罪判決を却下する代価は正当化されえないと言った。
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