エルトゥールル号海難事故編
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「海難1890」の記事における「エルトゥールル号海難事故編」の解説
明治22年(1889年)7月、トルコ帝国は大日本帝国への親善使節団を派遣することになり、ムスタファ機関大尉ら600名の軍人がエルトゥールル号に乗り込み出航した。老朽化の進むエルトゥールル号での外洋航海には不安の声もあったが、エルトゥールル号は明治23年(1890年)6月、無事に日本に到着し、使節団は明治天皇への謁見を果たした。しかし、艦内でコレラに感染した乗組員が出たため帰国の延期を余儀なくされる。艦内では士気の低下を防ぐため、甲板でレスリングを催し、そこでムスタファは機関室のベキル兵曹と友情を結ぶ。 明治23年(1890年)9月15日、エルトゥールル号は横浜港を出航し帰国することになった。しかし、折りしも日本には台風が到来しており、翌16日夜、エルトゥールル号は紀伊大島沖で座礁してしまう。座礁の影響で機関室に海水が流れ込み水蒸気爆発の危険が高まり、ベキルはムスタファに乗組員に退艦を促すように伝える。ムスタファは機関室を後にし甲板に向かうが、間もなく機関室はベキルたちを巻き込み爆発を起こし、エルトゥールル号は沈没する。同じ頃、爆発音を聞いた紀伊大島・樫野の村民たちが岸壁に向かうと、そこにはエルトゥールル号の乗組員の遺体が打ち上げられていた。村民たちは台風の中を総出で救助に当たり、医師の田村元貞は助手のハルと共に負傷者の手当てに奔走する。 翌日、目を覚ましたムスタファは、ベキルや提督のオスマン・パシャ以下500名以上の死者が出たことを知り、生き残ってしまった罪悪感に苛まれ、生存した乗組員たちに怒りをぶつけてしまう。そんなムスタファを見た田村は、ハルにムスタファの世話を任せる。十数日後、日本の要請を受けたドイツ軍艦が樫野に到着し、生存者を神戸に搬送する。村民たちは回復した乗組員との別れを惜しみ、乗組員たちは敬礼を以て村民たちの誠意に応えた。 ムスタファは遺留品回収のため樫野に残ることになったが、保管場所から遺留品がなくなっていることに気付く。ムスタファは村民が金目当てに盗んだと思い、村長の佐藤に抗議するが、田村に案内された場所に向かうと、そこでは村民たちが血塗れになった遺留品を洗って血を落としていた。田村は「血塗れのまま遺族に手渡したら遺族がどう思うか」と問い掛け、さらに、村民たちが自分たちの生活を投げ打って乗組員たちの救助や遺留品の回収をしていることを告げる。村民たちの気持ちを知ったムスタファは、村民たちへの感謝の念を抱くようになる。数年後、遺留品の回収を終えたムスタファは帰国することになった。田村はムスタファに「真心を忘れないで欲しい」と告げ、別れの挨拶を交わす。
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