エセックス伯の庇護と死別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 04:38 UTC 版)
「フランシス・ベーコン (哲学者)」の記事における「エセックス伯の庇護と死別」の解説
議会での失敗で政界の活動を絶たれたベーコンは、執筆活動を通して哲学研究に没頭すべきか、政界で再起を狙うかを悩む中でエセックス伯の庇護を受けたが、そのエセックス伯の後ろ盾があっても失敗する例が見られた。1594年に法務長官トマス・エジャートンが引いた後のポストにバーリー男爵父子が推した法務次官(英語版)エドワード・コークに対抗してエセックス伯がベーコンを推したが、その甲斐なくコークが法務長官に昇進した。この時は女王の怒りが解けていなかったため法務次官にもなれず、1596年になると女王との間が改善されたこともあり、エセックス伯の取り成しでどうにか特命の学識顧問官に任命されたが、報酬が伴わないため苦難の借金生活が続き、エセックス伯から地価1800ポンドの所領贈与の形で財政支援を受ける有様だった。1597年、エセックス伯の支援でバーリー男爵の孫娘で富裕な未亡人エリザベス・ハットン(英語版)(バーリー男爵の長男トマス・セシルの娘でウィリアム・ハットン卿の未亡人)へ求婚したが、彼女はコークを選んだためこの件でもコークに出し抜かれてしまった。 やがてエセックス伯が女王と対立、凋落してくると彼を諫めることが多くなった。1596年の助言では民衆の人気取りに軍事的栄光を求めるエセックス伯を諫め、1597年に議会に復帰してからもエセックス伯との繋がりを保ち、1599年のアイルランド遠征に反対したが聞き入れられず、遠征に失敗して女王に見限られてもエセックス伯と女王の間を取り持とうと奔走した。だがこうした行動は報われず、1601年2月にエセックス伯が反乱を起こして失敗し、高等法院王座部裁判所で裁判にかけられるとコークと共にベーコンも訴追側の一人となった。エセックス伯の処刑後は事件の全貌を明らかにする公開書の作成にあたった。 この時のベーコンの行動はエセックス伯に対する裏切り行為と取られ、晩年の失脚と合わせて当時から現在まで評判が悪い。しかしベーコンはエセックス伯の好戦的な姿勢が女王に危険視されていたことに気付いており、前述の通り最悪の事態を避けるため反乱前からたびたびエセックス伯に諫言したり、彼が没落しても見捨てず女王の間を取り持とうと奔走したことも事実であり、裁判の参加も女王の命令でベーコンは命令に逆らえなかったという擁護論もある。 エセックス伯の処刑に続き同年に兄も失い悲しみに暮れる中(1610年に母も死去)、10月に開かれた議会に選出、独占権を批判する議会に対し女王の独占権授与が国王大権に触れることから女王の擁護に回った。問題は女王が有害ないくつかの独占権を撤回することを約束・実行することで解決が図られ、合わせて臣民への感謝を表明した黄金演説(英語版)で議会は女王の称賛の場と化した。演説を聞いていたベーコンは女王のしたたかな政治手法に感心し、後に再び独占権批判が持ち上がった時に解決策として女王の方法を例に上げた。反面、自らの才能が発揮出来ない状況に苛立ちも感じていた。
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