ウイスキーの到来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 23:00 UTC 版)
「ジャパニーズ・ウイスキー」の記事における「ウイスキーの到来」の解説
日本に初めてウイスキーがもたらされたのは、江戸時代末期のマシュー・ペリーの来航の時と考えられている。1853年7月、浦賀の奉行や通訳がサスケハナ号で歓待された時、ウイスキーが振る舞われた。将軍徳川家定の元にウイスキーが献上された記録も残るが、実際に飲まれたかどうかは不明である。日米修好通商条約締結後、1859年より条約港の開港が行われると日本国内に外国人居留地が誕生し、外国人居留者のためにベーカー商会、タサム商会などがウイスキーの輸入を行った。1860年に開業した日本初の西洋式ホテル・横浜ホテル内のバーではウイスキーも出されていたという。1871年に横浜山下町のカルノー商会が輸入した「猫印ウヰスキー」 が、最初に日本人用として輸入されたウイスキーだとされている。 明治期の日本では本格的なウイスキーは製造されておらず、薬種問屋で製造されていた調合ウイスキー(模造ウイスキー)が国産品として出回っていた。調合ウイスキーとは、関税率が低いために廉価で入手できる外国製の酒精アルコール を使用し、これに砂糖香辛料を加えたものである。明治時代当時は酒類も薬とみなされており、小西儀助商店(現在のコニシ)、橋本清三郎、神谷伝兵衛などの大手薬種問屋をはじめとする、数々の業者が生産を手掛けていた。明治政府は日本酒の製造者を保護するため、混成酒税法(1896年施行)、酒精及酒精含有飲料税法(1901年施行)によって調合ウイスキーの流通を抑制しようと試みた。1911年に締結された日米通商航海条約で日本が関税自主権を回復すると外国製の酒精アルコールに高い税率がかけられ、代わって国産の酒精アルコールが台頭する。 明治末から大正時代にかけて、日本でも本格的なウイスキーを造ろうといくつかの酒造会社が行動を起こした。酒精アルコールのメーカーである摂津酒造の社長・阿部喜兵衛、常務・岩井喜一郎は技師の竹鶴政孝をウイスキーの産地であるスコットランドに派遣し、摂津酒造の得意先の一つであった寿屋洋酒店(のちのサントリー酒類)の創業者鳥井信治郎はウイスキー製造のための蒸留所建設を考えていた。
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