イエメン統合後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 10:05 UTC 版)
「アリー・アブドッラー・サーレハ」の記事における「イエメン統合後」の解説
隣国の南イエメン共和国ではソ連からの支援が途絶えた事で物資不足や国力の低下が進み、冷戦終結が目前に迫った1990年頃から北イエメンとの統合議論が本格化していた。サーレハもこの構想に前向きな姿勢を見せ、南イエメンの実質的な指導者である南イエメン社会党書記長アリー・サーリム・アル=ベイド(英語版)との交渉を行った。両者の協議でイエメン統合後の新政府ではサーレハが大統領、アリー・サーレムが首相および副大統領に就任する事などが決定された。1990年5月22日、イエメン統合によりサーレハは初代イエメン大統領に就任した。 1990年8月2日、湾岸戦争が勃発すると、サーレハは同じアラブ協力会議の加盟国であるヨルダンのフセイン1世とともにイラクのフセイン政権と戦うことを拒否し、国際社会のみならず、アラブ諸国の非難を受けた。抗議としてクウェート政府は国内のイエメン人労働者を全て国外追放処分にした。 1993年、統合政府としては初めてとなる総選挙(英語版)が行われ、旧・北イエメンの翼賛政党である国民全体会議が全体議席の3分の1以上となる301議席中122議席を獲得した:309。北イエメン時代には及ばないものの、統合イエメンにおいてもサーレハが強大な権限を有している事を示した。 1994年5月4日に北イエメン派の主導する統治に反感を抱いた副大統領アリー・サーリム・アル=ベイドは再分離を主張してイエメン内戦を引き起こすが、サーレハは2か月間の戦いを経て反乱軍を鎮圧した。対立勢力を排除したサーレハは統合イエメンでの独裁体制確立に向けた動きを本格化させる。 1997年12月24日、サーレハは軍から陸軍元帥の名誉称号を授与され、統合イエメン軍の最高司令官という立場を得た。続いて1999年にはイエメン大統領選挙(英語版)で「96.2%の得票を得て」大統領に再選された:310。この選挙ではまともな対立候補が立てられておらず、統合政府においてもサーレハの独裁が確実視されつつあった。 総選挙後に大統領の任期を7年間に延長するなど大統領に権限を集中させる法律を可決させ、国際団体「フリーダム・ハウス」はイエメンでの政治的自由が悪化していると警告した。国外の批判に対してサーレハは2005年7月に次期大統領選挙への不出馬を表明したが、2006年9月20日に前言を撤回して大統領選挙に出馬した。この事には政権内でも批判が噴出したが、サーレハは出馬を強行した。 2006年、イエメン大統領選挙(英語版)でサーレハは対抗馬となったファイサル・ビン・シャムランに20%以上の投票を奪われるというアクシデントに見舞われたものの、結局は77.2%の票を獲得して再選を決定した。既に統合から16年間、北イエメン時代から数えれば24年目の統治であり、独裁以外の何物でもなかった。サーレハは新しい任期について、アメリカとの対テロ協力などをスローガンに掲げ、演説で米艦コール襲撃事件での対米協力を強調する発言を行った。 イエメン国内ではサーレハの肖像画や壁画が無数に作られ、自身の名前を模した巨大モスクが建てられるなど、周辺のアラブ諸国同様に指導者に対する神格化を進めていた。
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