アルゼンチン革命の挫折(1966年-1973年)
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1966年6月にクーデターで大統領に就任したフアン・カルロス・オンガニーア将軍は、「アルゼンチン革命」を掲げて外国資本を導入し、緊縮政策でインフレを抑制した。アルゼンチンでもブラジル型の官僚主義的権威主義体制が成立したのである。この経済政策は当初は成功し、ブラジル同様に外国資本の大流入による著しい工業成長が1970年まで続いた。 しかし、オンガニーアの強権的な弾圧政治でもブラジルの軍事政権がコスタ・エ・シルヴァ将軍の時代に達成したような、国民的な抵抗運動の完全な排除にまでは至らず、1969年5月にコルドバ大学の学生運動から始まったコルドバ暴動(コルドバソ)が国内諸都市に波及し、鎮圧のために軍隊が出動するとオンガニーア政権は厳しい立場に立たされた。さらにオンガニーアの就任と時を同じくして、1960年代初頭にキューバ革命の影響を受けて成立したゲリラ組織が隣国ウルグアイのトゥパマロスの影響などを受けて復活し、ペロニスタ武装軍団、アルゼンチン解放戦線を初めとする都市ゲリラが跋扈するようになった。特に、1969年に「青年ペロニスタ」から分離独立したモントネーロスは、1970年5月から6月にかけてペドロ・エウヘニオ・アランブル元大統領を誘拐、暗殺し、この事件が軍の決定的な離反を招いて同年6月8日にオンガニーアは失脚した。 オンガニーアの後を継いで同年6月18日に大統領に就任したロベルト・マルセーロ・レビングストン将軍は、オンガニーア時代の弾圧政治に終止符を打ち、軍部、労働組合、テクノクラートの国民的合意により民族産業を発展させることを目標にしたが、長年の政治的混乱によりこの目標は果たせず、1971年3月の第二次コルドバ暴動により失脚し、同年3月26日にアレハンドロ・ラヌーセ将軍が大統領に就任した。 ラヌーセ大統領はアルゼンチンの政治、経済の大混乱がペロニスタと軍部の泥沼の抗争にあると見て、ペロニスタを議会政治の枠に戻すことにより「国民的大合意」を図り、軍部の抵抗がありながらもマドリードに亡命中のペロンと連絡を取って、ペロンの直接出馬を認めないものの、正義党の出馬を認めた大統領選挙が1973年3月11日に実施された。
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