アルゼンチン革命の挫折とは? わかりやすく解説

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アルゼンチン革命の挫折(1966年-1973年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:06 UTC 版)

アルゼンチンの歴史」の記事における「アルゼンチン革命の挫折(1966年-1973年)」の解説

1966年6月クーデター大統領就任したフアン・カルロス・オンガニーア将軍は、「アルゼンチン革命」を掲げて外国資本導入し緊縮政策インフレ抑制したアルゼンチンでもブラジル型の官僚主義権威主義体制成立したのである。この経済政策当初成功しブラジル同様に外国資本大流入による著し工業成長1970年まで続いた。 しかし、オンガニーアの強権的弾圧政治でもブラジルの軍事政権がコスタ・エ・シルヴァ将軍の時代達成したような、国民的な抵抗運動の完全な排除にまでは至らず1969年5月コルドバ大学学生運動から始まったコルドバ暴動(コルドバソ)が国内都市波及し鎮圧のために軍隊出動するとオンガニーア政権厳し立場に立たされた。さらにオンガニーアの就任と時を同じくして、1960年代初頭キューバ革命影響受けて成立したゲリラ組織隣国ウルグアイトゥパマロス影響など受けて復活しペロニスタ武装軍団アルゼンチン解放戦線初めとする都市ゲリラ跋扈するようになった。特に、1969年に「青年ペロニスタ」から分離独立したモントネーロスは、1970年5月から6月にかけてペドロ・エウヘニオ・アランブル元大統領誘拐暗殺し、この事件が軍の決定的な離反招いて同年6月8日にオンガニーアは失脚した。 オンガニーアの後を継いで同年6月18日大統領就任したロベルト・マルセーロ・レビングストン将軍は、オンガニーア時代弾圧政治終止符打ち軍部労働組合テクノクラート国民的合意により民族産業発展させることを目標にしたが、長年政治的混乱によりこの目標果たせず、1971年3月第二次コルドバ暴動により失脚し同年3月26日にアレハンドロ・ラヌーセ将軍大統領就任した。 ラヌーセ大統領アルゼンチン政治経済大混乱ペロニスタ軍部泥沼抗争にあると見てペロニスタ議会政治に戻すことにより「国民的合意」を図り軍部抵抗ありながらマドリード亡命中のペロン連絡取ってペロン直接出馬認めないものの、正義党出馬認めた大統領選挙1973年3月11日実施された。

※この「アルゼンチン革命の挫折(1966年-1973年)」の解説は、「アルゼンチンの歴史」の解説の一部です。
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