アフリカ史における功績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 20:37 UTC 版)
「デイヴィッド・リヴィングストン」の記事における「アフリカ史における功績」の解説
リヴィングストンのアフリカ史、およびヨーロッパ列強のアフリカ観における影響は甚大である。第一に挙げられるのが、リヴィングストンの第一次アフリカ探検以前は、アフリカは「暗黒大陸」という名が示すとおり、一部を除きヨーロッパにはほとんど知られておらず、古代ローマ期にアレクサンドリアの地理学者プトレマイオスから得た知識からほとんど進展がなかった。しかし、リヴィングストンは探検中に天体観測による測量術を身に付け、ほぼ正確に地図を作ることができた。その地理上の発見はイギリスに手紙で伝えられることにより、ヨーロッパ各地でアフリカの地図が作成されることとなり、交易のルートがそこから生まれた。 リヴィングストンの「開拓した」交易ルートを最も利用したのは、象牙商人などではなく、奴隷商人たちであった。中央アフリカへのルートが開拓されたことで、その地域の奴隷狩りが頻繁に行われるようになった。そのため、インド洋を中心とした奴隷貿易はむしろ活発化してしまい、ザンジバルの奴隷市場は中央アフリカ最大と呼ばれるまで成長した。著書や手紙で再三ポルトガル領やスルタンによって行われている奴隷市場の廃絶を繰り返し訴えていたため、危機感を抱いた奴隷商人に探検中に何度も妨害され、時には暗殺されかかった。彼の運動は1871年、国民からの庶民院への要望提出により実を結び、数ヵ月後、ザンジバルの奴隷市場は閉鎖された。 アフリカ大陸での奴隷貿易はそれからも各地で細々と続けられ、のちにヨーロッパ列強がアフリカ政治へ介入する口実となり、列強はアフリカ分割へと突き進むこととなる(en:African slave trade参照)。列強のアフリカ進出においてリヴィングストンよりも直接的な影響を与えたのがスタンリーである。彼は優秀な探検家である一方、ベルギー国王レオポルド2世の委託を受け、アフリカ各地の集落の族長などに貢ぎ物を与え、コンゴ自由国の建国などで多大な役割を果たした。 探検家でありながら結果的にヨーロッパの植民地支配のために尽力することとなったスタンリーに対し、リヴィングストンは、自身ではあくまでも自分の第1の目的は宣教であり、探検はその拠点を探索するための手段であると著書の中で述べている。彼の功績により、ヨーロッパからの宣教師の流入は格段に増え、彼の著書に触発され、宣教師を志す若者も増えたと言われている。 ザンビアには彼の名にちなんだ都市リヴィングストンがあり、今も彼の記念碑と彼の資料を集めた博物館が建っている。また、マラウイのカロンガ県の都市、リビングストニアもこの名に由来する。
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