アテネでの経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 17:04 UTC 版)
「ローザ・エスケナージ」の記事における「アテネでの経歴」の解説
ローザはザルディニディスの死後まもなくアテネへ移り、音楽の職業を続けることになった。彼女はすぐにアメリカ人のキャバレー歌手、セラモウスとザベルとチームを組んだ。彼らは彼女はトルコ語を話せるし歌手としての才能が感じられたから好きになったのだと報じられている。ダンサーとして出演し続けたが、ローザはクラブの後援者達のためにギリシャ語、トルコ語、英語で歌うことも始めた。1920年代後半に有名な作曲家であり興行主であるパナギオティス・トウンダスに彼女が初めて発掘されたのはそこである。トウンダスはただちに彼女の才能を認識し、彼女をコロンビア レコードのバシリス・トウンバカリスへ紹介した。 コロンビアでのローザの最初の2作のレコーディング、マンディリ・カラマティアノとコフティン・エレニ・ティン・エリア(c.1928)は1960年代までほとんど途切れることなく続くレコーディング経歴の記念すべき始まりとなった。1930年代中頃までには彼女はコロンビアのために300曲以上の歌を録音しており、最も人気のあるスターの一人になっていた。その音楽の一部は特にトルコにあるギリシャとスミルナ生まれの民謡であった。 しかしながら彼女の地元音楽シーンへの最も重要な貢献とは、レベティコの、そして特にレベティコのスミルナ学校のレコーディングであった。彼女はほとんど独力で大衆文化へ突破口を開く支援をした、そして今日でもまだ彼女の独特な音はそのジャンルのそのものだと見なされている。 レコーディングを始めてまもなくローザはアテネのナイトクラブ「テイゲトス」で夜も出演するようになった。彼女と共に舞台に登場したのはトウンダス、バイオリニストのサロニキオスとウード演奏者のアガピオス・トンボウリスだ。しかしショーの目玉はやはりエスケナージで、一晩で前代未聞の200ドラクマを稼いだ。彼女が後に彼女の伝記作家コスタス・ハジドウリスに打ち明けたところによると自分はショーの収入だけではるかに金持ちになっていたはずなのに高価な宝飾品を好む弱点のために収入をそれに費やし過ぎてしまった。 彼女の経歴が開花すると、エスケナージは1931年か32年ころコロンビア レコードと独占契約を結んだ。彼女の契約条件によれば彼女は一年に最低40曲をレコーディングし自分が売ったレコードの1枚につき5パーセントの費用を受け取ったとある。当時彼女はレコード会社と印税契約をしたただ一人のギリシャ女性アーティストであった。
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