アテネの植民地からローマ属州へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 17:22 UTC 版)
「アンフィポリス」の記事における「アテネの植民地からローマ属州へ」の解説
紀元前357年にピリッポス2世はアンフィポリスを征服したが、アテナイはアンフィポリスの奪回を初めのうちはしようとしなかった。歴史家テオポンポス(en:Theopompus)によると、アテナイとピリッポス2世との間で密約が交わされており、ピュドナ(en:Pydna)の町と攻略したアンフィポリスの町を交換するという約束であった。しかし、ピリッポスはこの密約を破り、アンフィポリスを譲ることを拒否し、ピュドナの町を包囲した。 アンフィポリスはピリッポスに攻略されると、すぐにマケドニア王国に併合されなかった。それどころか町の制度やある程度の自治権も残されたのであった。しかしその一方で、多くのマケドニア人統治者をアンフィポリスに送り、多くの点で町を効率的に「マケドニア化」したのであった。用語や暦などがマケドニアのものに代えられ、通貨も今まで使用していたドラクマ硬貨から、スタテル金貨に置き換えられた。アレクサンドロス3世(大王)の治世においては、アンフィポリスは重要な海軍基地の一つとなり、有名なマケドニア王国の3人の提督である、ネアルコス、アンドロステネス、ラオメドンを生むことになった。また彼らはアンフィポリスで埋葬されることにもなった。 アンフィポリスはその後、マケドニア王国における「王の道」、後には南バルカン地域を横断するローマ帝国のエグナティア街道となる道、の主要な宿駅となった。これはピリッポイとアンフィポリスの町の間で、アンフィポリスまでの距離が彫られた石が発見されたことが証明している。この時代の遺跡としては、町の城壁とギムナジウム、それに邸宅にあるフレスコ画ぐらいしか残っていない。当時の町の構造はあまり知られていないが、ピリッポス5世の軍令などの豊富な文書を解析した現在の研究によると、アンフィポリスの町は非常にいい形をしていたようである。 紀元前168年にピュドナの戦いで共和政ローマがマケドニア王国に勝利すると、マケドニア王国は「メリデス」と呼ばれる小さな4つの共和国に分割され、アンフィポリスはそのうちの1つの首都となった。この「メリデス」はローマの同盟国となり、その後マケドニア属州の一部となった。
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