アクロバット金庫
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日本軍は1941年12月25日香港を占領した。翌年1月にクアラルンプール、シンガポール、3月ジャワ島を占領した(蘭印作戦)。マンダレーとマニラも占領した。南方軍は現地通貨と軍票を円と交換させなかった。この措置は、現地で必要な資源開発資金や物資買付金を日本から持ち出せなくした。この不都合を解決するためには、臨軍費にもとづく現地の軍票資金を貸し出す他なかった。しかし本来、軍票は軍事支払の手段であったし、国庫会計として軍経理部が行うことはできなかった。そこで政府は、臨軍費から軍票資金を借り入れてそれを融資する南方開発金庫の設立を計画した。 南発の設立準備は開戦直後から着手された。1942年1月6日、政府は南方開発金庫法案要綱を閣議決定した。さらに同月23日、第79議会に南方開発金庫法案を提出した。法案の骨子は次のとおり。①南発は南方地域における資源の開発および利用に必要な資金を供給し、あわせて通貨と金融の調整をはかる。②南発を東京におき、政府の認可をうけて必要なる地に支金庫・出張所をおく。③出資金は1億円全額を政府が支出するが、日本国債で充当可能とし、第一回の払い込みは資本金の一割以上とする。④職員は公務員とみなす。⑤南発は地金銀の売買をふくむ市中銀行業務ができる。⑥政府の認可をうけて、目的外の業務および借入れができる。⑦払込資本金の十倍まで南発は債券を発行できる。⑧政府は南発が投融資によって受けた損失を補償する契約をなすことができる。⑨臨軍費特別会計は南発に大して貸付をなすことができる。 南発法案は従来の植民地金融機関の例を逸脱するものであった。それで発券業務をやる気なのかという懸念も議会内外で言われたが、法案は無修正で両院を通過して1942年2月19日に公布された(南方開発金庫法)。3月25日、政府は第一回出資金として三分半利付国債国債1032万円を交付し、南発は30日に設立された。総裁には満鉄副総裁の佐々木謙一郎が任命された。副総裁は日銀理事の武井理三郎であった。理事は次のような面々であった。大内球三郎(陸軍主計中将)、本田増蔵(海軍主計中将)、安藤明道(大蔵省大阪造幣局長)、太宰正伍(横浜正金銀行調査部長)、但木二王(ただき・ふたみ、台湾銀行為替部長)、立花定(日本曹達重役)、以上6名。監事は太田嘉太郎(日鐵常任監査役)と裏松友光(貴族院議員)が就任した。事務所は東京アメリカンクラブにおかれた。1943年1月下旬、南発は急に発券業務を認可された。政府貸上も義務づけられた。
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