ようめい‐てんのう〔‐テンワウ〕【用明天皇】
用明天皇
母は蘇我稲目の娘の堅塩媛。
そして皇后には蘇我稲目の娘小姉君の子泥部穴穂部皇女を迎えた。
小姉君は堅塩媛の妹である。
その小姉君の子である泥部穴穂部皇女を皇后に迎えたのであるから、蘇我氏の権勢がいかに侮りがたいものであったかを示している。
用明は穴穂部皇女との間に厩戸・来目・殖栗・茨田の皇子をもうけ、さらに蘇我稲目の娘で皇妃の石寸名(いしきな)との間に田目皇子。
また、当麻倉首比呂(葛城直磐村)の娘飯之子との間に当麻皇子、須加手姫(酢香手姫)皇女をもうけた。
この須加手姫皇女は後に用明天皇の詔により伊勢神宮の斎宮(いつきのみや=伊勢神宮に奉仕した未婚の皇女をいう。
「神の御杖代」ともいわれた。
なお起源は、豊鍬入姫命・倭姫命とする。
)となった。
用明は即位後蘇我馬子を大臣に、物部守屋を大連とした。
蘇我馬子と物部守屋との対立は、皇后の穴穂部皇女の同母弟の穴穂部皇子の三輪君逆斬殺により深まった。
蘇我馬子は自重を促したが、物部守屋が穴穂部皇子の命により兵を率いてその命を奪ったという。
その原因は皇位を狙う穴穂部皇子が炊屋姫(後の推古天皇・豊御食炊屋姫尊)に言寄ったことが原因とされている。
用明は疱瘡の流行で患い、司馬達等の子鞍部多須奈(くらつくりのたすな)が出家して病の平癒を祈り、丈六の仏像(坂田寺の本尊が推定されている。
)を建立することを願うとある。
578年用明天皇崩御する。
第31代天皇 | |
天皇名 | 用明天皇 |
読み方 | ようめいてんのう |
名・諱等 | 橘豊日尊 |
読み方 | たちばなのとよひのみこと |
時代区分 | 古代 |
天皇在位 | 585?年から587?年 |
生年 | 生年不詳 |
没年 | 没年不詳 |
父 | 欽明天皇 |
母 | 堅塩媛 |
兄弟 | 豊御食炊屋姫尊(推古天皇) |
配偶者 | 泥部穴穂部(間人)皇女 |
皇子女 | 厩戸皇子(聖徳太子)ら |
即位宮 | 池辺双槻宮 |
天皇陵 | 河内磯長原陵 |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町大字春日 |
用明天皇 河内磯長原陵
(ようめいてんのう こうちのしながのはらのみささぎ)
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