その他の活動と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 18:34 UTC 版)
「ジョン・ファウラー」の記事における「その他の活動と評価」の解説
ファウラーは、1880年(英語版)と1885年(英語版)の総選挙に保守党の候補として出馬したが、いずれも落選した。技術者の世界における彼の評価は非常に高く、1866年から1867年にかけては、イギリス土木学会会長に、最年少で選出された。学会における地位や、自身の実務実践を通して、彼は技術者教育の発達を主導した。1857年には、スコットランド、ロスシャー(英語版)州のブレイモア(英語版)に、57,000エーカー (23,000 ha)のエステートを購入し、以降しばしば休暇をここで過ごすとともに、州の治安判事や副統監を務めた。ファウラーは、紳士録『Who's Who』に、趣味としてヨットと鹿の追跡 (deerstalking) と記しており、カールトン・クラブ(英語版)、セント・スティーヴンス・クラブ(英語版)、保守党クラブ(英語版)、ロイヤル・ヨット・ スコードロン(英語版)のメンバーであった。ファウラーはまた、エジプト探査財団の代表でもあった。 1885年、ファウラーは、ナイル川上流部の実用的な地図を作り、エジプト副王(英語版)の諸計画進めたことに対し、政府から聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダーを授与された。彼の作成した地図は、この地域における最も正確な測量に基づいて作成されたもので、イギリスによるハルツーム救援の試みの際にも使用された。1887年、ファウラーはスコットランド王立協会(英語版)のフェローに選出された。推薦者となったのは、サー・ジェームズ・ファルショー(英語版)、ジェームズ・レスリー (James Leslie)、ジョージ・ミラー・カニンガム (George Miller Cunningham)、アレクサンダー・クラム・ブラウン(英語版)であった。 1890年にフォース鉄道橋が竣工すると、ファウラーは準男爵に叙され、スコットランドのエステートの名から土地指定(英語版)がなされた。1890年、彼は、橋の建設を技術面で主導したことに対してベンジャミン・ベイカーとともに、エディンバラ大学から法学博士の名誉学位を授与された。1892年、ファウラーはベイカーと共同でポンセレット賞(英語版)を受賞した。 ファウラーは、81歳でドーセット州ボーンマスで死去し、ロンドンのブロンプトン墓地に埋葬された。準男爵位は息子サー・ジョン・アーサー・ファウラー(Sir John Arthur Fowler, 2nd Baronet、1899年3月25日没)に継承された。この準男爵位は、1933年に、初代の3男であった第4代準男爵サー・モンタギュー・ファウラー師 (Reverend Sir Montague Fowler, 4th Baronet) が死去して消滅した。
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