桜井勉(さくらいつとむ? 1843-1931)
桜井勉は、出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石町伊木(現兵庫県豊岡市)に生まれ、8歳で藩校の弘道館に入門したのち堀田省軒(出石藩弘道館)、芳野金陵らに学んだ。
明治5年(1872)横浜税関出仕ののち、内務省地理局へ移籍した。
明治10年に内務省地理局長となった桜井勉は、同11年気象測候所の創設を全国府県に働きかけた。その結果、地理局の長崎測候所(明治11年)についで、広島県による広島測候所(明治12年)が開設されて気象観測網の基礎が築かれた。
桜井勉の地図測量にかかる業績に地誌の編纂がある。
明治政府は明治5年「皇国地誌」の編纂を計画したが、その困難さから、簡易版ともいえる「日本地誌提要」の変更し編纂を開始した。明治7年地誌課の塚本明毅の下で、全77巻がまとめられた。同8年、「日本地誌提要」が国単位にまとめられたものであったことから、これを詳細にした村単位にした本来の「皇国地誌」編纂の着手について各府県に布達した。
ところが、その著となる「大日本国誌 (安房 第三巻)」の編纂が完了したのは、明治19年のことであった。この間、各府県から提出されはずの郡・村誌が進まないことから、地誌の編纂を、当時気象・地籍・地誌編纂を主業務としていた内務省地理局が直接行うことにしたのである。その任にあたったのが、塚本明毅(明治18年没)と桜井勉であった。
しかし、その後同局にあった地誌編纂業務は、帝国大学に移されることになり(明治23年)、同編纂事業は、この一巻の完成だけで頓挫した。
桜井勉は、そののち徳島県知事(明治22年 1889)、山梨県知事、台湾新竹知事、内務省神社局長を歴任し、退官後の明治27年には衆議院議員となる。明治35(1902)に引退し、後は故郷で「校補但馬考」(大正11年 1922)などを著すなど郷土史研究や教育振興につとめた。
弟は、明治女学校を開校した キリスト教的教育者木村熊二である。これと関連するのだろうか、東京神田駿河台にある日本正教会の大聖堂、通称「ニコライ堂」の建築工事を請負った旧会津藩士の長郷泰輔の墓碑撰文は、桜井勉のものだという。子に「菩提樹」「野ばら」の訳者近藤朔風がいる。

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