この間の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/12 09:31 UTC 版)
4月20日 3行合併、「平成銀行」構想発表 4月23日 殖産銀行従業員組合、合併反対を表明 5月8日 北日本銀行従業員組合、臨時大会を招集 5月30日 3行、合併調印を延期 6月6日 北日本銀従業員組合、頭取ら、経営陣の退陣を要求 6月6日 杉谷利昭北日本銀頭取、持病再発で岩手医科大学付属病院に入院 6月18日 北日本銀合併の白紙撤回を決議 6月19日 德陽シティ銀、臨時取締役会で合併を白紙に戻すことを全会一致で決議 6月20日 殖産銀、臨時取締役会で合併の白紙撤回を全会一致で決議 1994年(平成6年)5月8日、北日本銀従業員組合は臨時大会を招集。合併の白紙撤回を決議しほぼ組合員全員の反対の署名を杉谷頭取に提出した。そして、「組合の同意のない限り、合併契約に調印などしない」の旨の約束を経営側と取り交わした。 これら北日本銀より生じた強硬な合併反対の動きに対して、反対の主因となっていた不良債権問題を抱えていた徳陽シティ銀は、不良債権の自行での償却は可能であり、そのための金額と資料を明示した。また、償却に対しても10年間もの年月がかかることはないとの見方を明らかにするが、破綻先債権102億円や金利減免等をあわせて、1088億にのぼるとされる不良債権への懸念が深まるばかりで、日毎に北日本銀行員の間では合併に対して懐疑的となったとされる。また、同行取引先団体も3万人を超える合併反対の署名を提出。顧客からは「合併強行の場合は取引を停止する」との声も出はじめた。 6月18日、岩手医科大学付属病院病室で開催された北日本銀臨時取締役会において、杉谷頭取から合併撤回の提案があり、出席役員全員の賛成により合併撤回の決議がなされた。翌19日には、德陽シティ銀臨時取締役会においても全会一致で合併を白紙に戻すことが決議され、20日には殖産銀取締役会においても合併の白紙撤回を決議、ここに3行合併は破談。「平成銀行」構想は発表からわずか2か月で潰えた。 この合併構想は、1994年(平成6年)2月に大蔵省が出した「行政指針」に沿ったモデルケースと言われ、金融界においては、合併計画そのものが大蔵省主導によりシナリオが練られたとみられていた。また、そもそも北日本銀は殖産銀、仙台銀との間での業務提携を進めていたが、仙台銀が合併に対して慎重な姿勢を見せ始めたため、大蔵省が途中から徳陽シティ銀を加えた合併構想を持ちかけたとされる。 さらに、想定より早い段階で合併構想が表に出てしまい、3行内部での根回し不足が露呈。表面化後には、銀行発足後の主導権争いで3行トップ間にぎくしゃくした側面が現れ始め、特に、経営規模の最も大きい北日本銀に対して、頭取ポストや合併事務局が設置されることに殖産銀や徳陽シティ銀では不満が高まっていた。また、殖産銀の叶内頭取が「次の頭取は私が就任する」と宣言するにおよび、この発言が混迷の度合いを深める結果となった。
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