うごけば、寒い
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
冬 |
出 典 |
無礼なる妻 |
前 書 |
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評 言 |
掲句は『無禮なる妻』(未来社)の中の一句。金子兜太は『無禮なる妻』(新装判)の本の帯に「これを読まずには眠れない」と書いた。 私が初めて読んで衝撃を受けた句。1941年2月、特高に逮捕され、東京拘置所に入っていた時の句である。弾圧された者にとっての一番短い抵抗の詩ではないかと思う。 ぬかるみの路を行くつくづくわが貧しき姿 せつなくて畳におちる女のなみだを叱るまい 泣くまいと妻の火によせる顔がやせているのも 九月四日わが裸のうらおもて獄吏のまえ 「たわしはいりませんか」どこの台所も日あたらぬ家 夢道は家族に対する思いやり、貧乏や世の中の理不尽さへの怒りを自由律で自由に大らかに詠った。 1903年徳島生まれ。1937年応召され半年後病気で除隊する。除隊後、銀座の蜜豆店「月ヶ瀬」の創業に加わり役員となる。“あんみつ”を創案し有名になる。「みつ豆をギリシャの神は知らざりき」の宣伝文句が有名である。1974年没。 俳句は、伯父の影響で、13歳頃から始めていた。1922年、荻原井泉水の句に接してから、「層雲」に投句し、井泉水に師事した。ここで栗林一石路と知り合い「旗」を創刊、4号で廃刊となる。それから「ラ・ハイク」「プロレタリア俳句」「俳句の友」等に改題し続刊を試みたが、弾圧によりすべて休刊とされた。1934年一石路と「俳句生活」を創刊したが、1941年2月、特高に検挙され、1943年3月まで投獄された。後「層雲」に復帰したが、戦後1946年新俳句人連盟結成に参加、1947年現代俳句協会に加入。 近著、殿岡駿星著「橋本夢道物語」(勝どき書房)は実に面白かった。 |
評 者 |
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備 考 |
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