『魔窟』1909年-1916年
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「アレクサンドル・クプリーン」の記事における「『魔窟』1909年-1916年」の解説
クプリーンは1908年に最も野心的で物議を醸した長編小説『魔窟』に取り組んでいた。この小説は売春が主題で第一部は1909年、第二部は1914年、第三部を1915年にそれぞれ発表した。第一部で広範な論争を引き起こし、第二部や第三部は世間一般の冷淡さに直面した。彼の小説はドキュメンタリーあるいは小説であるかどうか、2つの間で気迷うか、あるいは人為的方法で組み合わせを試みるか、明らかに決断することができなかった。「彼はドキュメンタリー気分によってより成功を果たし、売春宿生活の詳細に迫った第一部はずばぬけてよい」とニコラス・ルーカーは評する。小説は幾人のロシア批評家や自然主義文学作家等(その中にはレフ・トルストイ等)によって非難されたが、しかし、ニーナ・ベルベーロヴァ (Nina Berberova)など数多くから称賛された。 長編小説『魔窟』はクプリーンにとって最後の大きな作品であり、幾多の創作性の衰えを告げるものとなった。 1912年から第一次世界大戦勃発にかけてのクプリーン作品の多くは、"Black Lightning"および"Anathema"を除けば評価が低い。 1912年の4月から7月までの間、フランス南部を訪れ、旅で受けた印象の全体像で成り立つ短編集"The Cote d'Azur"が生まれた。1912年5月に執筆し始め、およそ20の短編はロシアに帰国した後、1913年に完成した。1911年、ペテルブルクの近くガッチナに一家とともに移った。 第一次世界大戦が勃発、クプリーンは地元ガッチナで軍病院を開設し、その後、西部戦線の町を訪れた。1914年の暮れ頃のこと、彼は報道機関を通して負傷者の治療費増額を強く訴え、そしてまた12月に彼の文学活動25周年を祝う考えを拒否した。予備役将校として1914年11月に軍隊へと召集され、フィンランドで歩兵中隊を1915年5月まで指揮したが、病気を理由に除隊した。戦争を反映している小説はわずかであるがその中で最も注目すべき風刺作品は国民の不満に際し財産を築き上げる皮肉でもって非難した("Goga Veselov", "The Cantaloups", "Daddy", "Grunya")等である。
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