『王様と私』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 08:32 UTC 版)
「アメリカ合衆国の舞台芸術における東アジア人の描かれ方」の記事における「『王様と私』」の解説
詳細は「王様と私」を参照 ミュージカル『王様と私』はリチャード・ロジャースが作曲、オスカー・ハマースタイン2世が脚本を担当した。1944年のマーガレット・ランドン著『Anna and the King of Siam 』(アンナとシャム王)を基にし、タイ王国の王が近代化をはかり、雇ったイギリス人教師アンナの経験を通して東洋の文化と西洋の文化が衝突する様子を描いている。王とアンナは衝突と口論を繰り返し、どちらもなかなか愛を口にできない。 最近ではダラス・サマー・ミュージカルによる『王様と私』のプロダクションが王役に白人俳優を配役したことで批判された。プロダクション宛てのAAPACからの公開書簡では「西洋文化と東洋文化の衝突についての物語で白人俳優が王役を演じるのはドラマツルギーを弱らせる」とし、「「アジア人の真似」は「アジア人」ではない。白人中心主義の視点で描いている」と記された。
※この「『王様と私』」の解説は、「アメリカ合衆国の舞台芸術における東アジア人の描かれ方」の解説の一部です。
「『王様と私』」を含む「アメリカ合衆国の舞台芸術における東アジア人の描かれ方」の記事については、「アメリカ合衆国の舞台芸術における東アジア人の描かれ方」の概要を参照ください。
『王様と私』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 18:23 UTC 版)
「ガートルード・ローレンス」の記事における「『王様と私』」の解説
1950年、ローレンスのビジネス・マネージャーで弁護士のファニー・ホルツマンはローレンスのために新たな作品を探しており、マーガレット・ランドンの代理人であるウィリアム・モリスのエージェンシーからランドン著の『アンナとシャム王』が送られてきた。モリスはこの小説の舞台化にローレンスが最適であると考えたのである。ホルツマンは同意したが、演劇よりミュージカルの方が良い作品になると感じた。ローレンスはコール・ポーターが作曲してくれることを望んだがポーターは乗り気でなく、ホルツマンは小説をリチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン2世に送った。当初ロジャースはローレンスの声域に限界があり、音程が低めであると感じ反対していた。しかし物語の可能性に気付き、ロジャース&ハマースタインは『王様と私』として製作することに同意した。 1951年3月、ブロードウェイのセント・ジェイムズ劇場で開幕し、ローレンスはトニー賞ミュージカル主演女優賞を受賞した。しかしこの名声は長くは続かなかった。ローレンスの健康状態は急速に悪化し、入院前には度々休演するようになった。1952年9月5日金曜午後、ニューヨーク長老派教会病院で寝たきりとなり、ホルツマンに当時助演扱いであった王様役のユル・ブリンナーの名を劇場のマーキー (看板)(英語版)にローレンスの名と併記するよう頼んだ。翌9月6日、ローレンスは亡くなった。
※この「『王様と私』」の解説は、「ガートルード・ローレンス」の解説の一部です。
「『王様と私』」を含む「ガートルード・ローレンス」の記事については、「ガートルード・ローレンス」の概要を参照ください。
- 『王様と私』のページへのリンク