『灰と土』
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「アティーク・ラヒーミー」の記事における「『灰と土』」の解説
1996年にターリバーンが政権を掌握した。第一子が生まれた年でもあり、いつか娘に故国のことを語ることになるだろうと思い、また、彼なりに「故国と和解したい」と思い、アフガニスタンを舞台にした『灰と土』の執筆に取りかかった。名誉、復讐などのアフガン社会(イスラム社会)の伝統的な価値と、「家族でも、部族でも、宗教でもなく」、「アフガン社会に存在しない個人」という概念の対立を描いたこの作品は、アフガニスタンの公用語の一つであるダリー語で書かれ、2000年にフランス語訳が出版された。ラヒーミーはこれを機に、フレデリック・ベグベデ(フランス語版)の文芸評論番組「本と私」で初めてテレビ出演するなど、メディアで取り上げられるようになり、次いで『灰と土』の映画化に取りかかった。映画の撮影のためにアフガニスタンに戻ったのは、出国から18年後の2002年1月、ターリバーン政権崩壊直後のことであった。同地では、撮影だけでなく、若手脚本家の指導にあたった。また、ベルナール=アンリ・レヴィとともに若手作家支援のための作家会館を設立した。この延長として、現在では、フランス・キュルチュールとの連携により、アフガニスタンの出版社に支援を提供している。映画『灰と土』の製作はイランの映画会社が担当したが上映を断念したため、ベルナール=アンリ・レヴィがこの企画を引き継ぎ、彼の父アンドレ・レヴィが創設した映画会社「明日の映画」社が配給会社となった。この作品は、2004年(第57回)カンヌ国際映画祭のある視点部門で上映された。なお、題名の「灰と土」は、老人ダスタギールが噛みタバコの代わりに、焦土と化したアフガニスタンの土を、死者たちの灰とともに口に含む最後の場面から取られたものである。
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