『イソップの饗宴』誌創刊
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「ギヨーム・アポリネール」の記事における「『イソップの饗宴』誌創刊」の解説
1902年の秋頃から、芸術・文学雑誌『ユーロペーアン(欧州人)』や『ラ・ルヴュ・ブランシュ(フランス語版)』に寄稿し始めた。特に「白い(白紙の)評論」を意味する『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌は、1889年にリエージュ(ベルギー)で創刊され、1891年10月にパリに拠点を移してからは無政府主義的傾向の前衛芸術・音楽・文学雑誌として知られ、ロートレックやピエール・ボナールの表紙画によって好評を博していた。1903年には早くも終刊になったが、ステファヌ・マラルメ、アンドレ・ジッド、シャルル・ペギー、マルセル・プルースト、アルフレッド・ジャリ、ポール・クローデル、ポール・ヴェルレーヌ、クロード・ドビュッシーらが寄稿しており、アポリネールは同誌の1902年5月号に初めて芸術評論を掲載した。ベルリンのペルガモン博物館内に復元・展示されているゼウスの大祭壇に関する記事である。 1903年4月18日、現在のパリ5区のサン=ミシェル広場(フランス語版)にあったカフェ「カヴォー・デュ・ソレイユ・ドール(フランス語版)(キャバレー黄金の太陽)」の地下で、1889年4月にレオン・デシャン(フランス語版)によって創刊された芸術・文学雑誌『ラ・プリュム(フランス語版)(筆)』の夜会が行われた。ピアノ伴奏による詩の朗読会で、アポリネールはここでアルフレッド・ジャリ、そして兵役を終えたばかりのアンドレ・サルモン(フランス語版)らと出会った。この出会いを機に、アポリネールは文学雑誌『イソップの饗宴』を創刊。ジャリ、サルモンのほか、トゥーサン=リュカ、ジョン=アントワーヌ・ノー(フランス語版)、ジャン・ド・グールモン(フランス語版)、ジャン・ロワイエール(フランス語版)らが参加した。創刊号には、この雑誌が文学作品や批評を掲載すること、およびいかなる流派にも属さないことが明確に記されており、アポリネールの「エスプリ・ヌーヴォー(新しい精神)」を反映するものであることがわかる。実際、同誌には毎回「今月の書評」を掲載するほか、創刊号には1910年発表の処女短編集『異端教祖株式会社』に収められる「ク・ヴロヴ?」、第5号から第9号(1904年8月の最終号)までは1909年発表の代表作『腐ってゆく魔術師』が掲載されている。さらにこれを機に、1904年、アルフレッド・ヴァレット(フランス語版)、ジャリ、グールモン、ギリシャ出身の象徴主義の詩人ジャン・モレアス、小説『にんじん』を著したジュール・ルナール、象徴主義の詩人サン=ポル=ルーやアルベール・オーリエらによって象徴主義の雑誌として1890年に再刊された『メルキュール・ド・フランス』誌に初めて随筆を掲載した。
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