「知」の欺瞞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 16:34 UTC 版)
ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞』の中で、著作の目的を次のように述べている: われわれの目的は、まさしく、王様は裸だ(そして、女王様も)と指摘する事だ。しかしはっきりさせておきたい。われわれは、哲学、人文科学、あるいは社会科学一般を攻撃しようとしているのではない。それとは正反対で、われわれは、これらの分野がきわめて重要と感じており、明らかに事実無根のフィクションと分かるものについて、この分野に携わる人々(特に学生諸君)に警告を発したいのだ。 — アラン・ソーカル & ジャン・ブリクモン 2000, p. 7 ソーカルによれば、彼ら(ポストモダン思想家)が執筆しているのは科学の論文ではなく、従って彼らの科学用語は比喩としての役割以外のものはない。従ってその厳密な科学的意味を求めても意味はなく、イメージを介して表現しにくい物事を語っているだけである。それは「用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な用語を使って見せる」行為であり、ポストモダン思想家たちは「人文科学の曖昧な言説に数学的な装いを混入し、作品の一節に「科学的」な雰囲気を醸し出す絶望的な努力」をしている。 しかしポストモダン思想家たちの科学的なナンセンスぶりは単なる「誤り」として見過ごすことができるような代物ではなく、「事実や論理に対する軽蔑、といわないまでもひどい無関心がはっきりとあらわれている」。 さらにソーカルは、ポストモダニストの中には、比喩以外の文脈で科学用語を乱用しているものもいると主張する。ソーカルによれば、ラカンは神経症がトポロジーと関係するという自身のフィクションについて、「これはアナロジーではない」とはっきり発言している。また、ブルーノ・ラトゥールも、経済と物理における特権性に関する自身のフィクションについて、「隠喩的なものでなく、文字通り同じ」と隠喩でないことを強調している。また、クリステヴァは、一方で詩の言語は「(数学の)集合論に依拠して理論化しうるような形式的体系」であると主張しているのに、脚注では「メタファーとしてでしかない」と述べている。 ソーカルとブリクモンはこれらの思想家の著作における「科学」がいかにデタラメか繰り返し批判しているが、比喩や詩的表現そのものを批判したわけではなく、批判の焦点は、ポストモダニストが「簡単なことを難しく言うために比喩を使っている」という点にあった。ポストモダン思想家による数学や物理学のアナロジーは、「場の量子論についての非常に専門的な概念をデリダの文学理論でのアポリアの概念にたとえて説明」して失笑を買うようなものだ、とソーカルは述べている。
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