「月三部作」の執筆
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「イェジイ・ジュワフスキ」の記事における「「月三部作」の執筆」の解説
1901年末までには、ジュワフスキは教師の仕事を断念して旅行と執筆に専念していた。このころ完成させたものに大作の第一巻、悲劇的に不運な月世界探検を描いた『銀球で』がある。この作品には、最後に"ピサウェム・フ・クラコヴィェ、ヴ・ジミェ・1901-2(Pisałem w Krakowie, w zimie 1901–2)"(「私はこれをクラクフで1901年から2年の冬に書いた」)という言葉が付されている。『銀球で』は地道な努力によって1901年12月から1902年4月の間、文学雑誌"グウォス・ナロドゥ(Głos Narodu)"(国民の声)に連載された。そして1903年にはルヴフで改訂版が出版された。 次の五年間、それは他に類を見ない作品であった。しかし1908年の秋から1909年の春の間、"ズヴィチェンスツァ(Zwycięzca)"(勝利者)と題された続編の連載が、"クリイェル・ヴァルシャフスキ(Kurier Warszawski)"(ワルシャワ日刊新聞)紙上で開始された。続けられるうち、話中では幾つもの世代が重ねられ、幾世紀もが過ぎて行き、それは前作『銀球で』と比べてより長く、より複雑で、より哲学的な作品になっていった。改訂され単行本として出版されたのは、1910年である。なお1910年は最終巻"スタラ・ジェミャ(Stara Ziema)"(古い地球)の第一回が誌上に登場した年でもある。これは『勝利者』の直接的な続編で、前作の(すでに殺された)主人公“勝利者”マーレクの宇宙船を使って月の矮人の二人組が先祖の惑星「地球」に帰ろうとする物語である。「国民の声」誌(『銀球で』を掲載した雑誌)は1911年の春に完了するまでこれの連載を継続し、三部作を完結させた。単行本は同年の末に刊行された。 全三巻セットの初版は、ルヴフで1912年に出版された。「月三部作」はその直後から以降の数十年も継続して、事実上ヨーロッパの全ての言語で広く読まれた。英語には翻訳されていないことが、ただ一つの注目すべき例外である。また、「月三部作」を初めとするジュワフスキの著作は日本語にも全て未訳である(2009年現在)。イェジイの又甥に当たる映画監督アンジェイ・ジュワフスキ(ズラウスキー)によって、第一巻が映画化され1987年に公開された(→「シルバー・グローブ/銀の惑星」)。 (各巻の内容については#小説の節を参照。)
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