「日本民族」の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:01 UTC 版)
古墳時代、朝廷権力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。 「日本人」「日本民族」という認識(民族国家「日本」の成員としてのアイデンティティー、同胞意識)が形成され浸透していく経緯については諸説あり、ヤマト王権の支配が広い地域に及ぶ以前の弥生時代から倭人として一定の民族的統合があったとする説、また律令制を導入し国家祭祀体制を確立させた7世紀後期の天武・持統期(飛鳥時代後期)にその起源を置く説、13世紀の元寇(鎌倉時代中期)が国内各層に「日本」、「日本人」意識を浸透させていく契機となったとする見解などがある。 大和盆地の大王を中心とした連合政権国家または中央集権国家であるヤマト王権(大和朝廷)が成立すると、本州、四国、九州の住民の大半は大和民族として統合された。東北の蝦夷や北九州の熊襲、南九州の隼人と呼ばれた諸部族は大和朝廷に服属せず、抵抗した。その後、それらの諸部族は景行天皇・日本武尊の遠征や隼人の反乱の失敗、坂上田村麻呂の蝦夷征伐などにより、大和朝廷の下に統合されていった。白村江の戦い以後、倭国は長年支配した朝鮮半島から手を引いたが、代わりにそれまで手付かずであった岩手県以北の東北日本へ進出し、現在の青森県にあたる本州最北部までを統一する。朝廷の支配が揺らいだ平安時代の東日本では、平将門の将門政権や奥州藤原氏の平泉政権など半独立政権が築かれたものの、東日本と西日本の民族的統合は保たれ、後に関東地方を基盤とした武家政権が全国を支配することとなった。
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