「回復領」のポーランド化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 21:16 UTC 版)
共産主義体制側にとっては、ピャスト朝の後継者としてポーランド人民共和国を確立していくことと平行して、新たなフロンティアには、それに見合った人口が確保されなければならなかった。東部辺境の領土(Kresy Wschodnie)がソ連に併合されたため、ポーランドは結果的に全体が西へ移動し、面積は 389,000 km2 から 312,000 km2 へ、およそ20%減少した。何百万人もの「非ポーランド人」(おもにドイツ人とウクライナ人)が、新たにポーランドとなった地域から追放され、他方ではカーゾン線以東にいたポーランド人たちが東部辺境から追放されて流れ込んできた。追放者たちは「本国送還者」と呼ばれていた。その結果、ヨーロッパの歴史の中でも最大規模の住民の入れ替えが行われることになった。ピャスト朝の版図を回復した新たな西部・北部領土の姿は、ポーランド人入植者や、ポーランド人「本国帰還者」たちに、そこへ到達して、新体制に忠実な組織立ったコミュニティづくりに参加することを促し、先行して行われた当該地域での民族浄化を正当化した。ドイツ人の脱出や追放の結果、当地に残ったのは「先住民」である、マズールィ(マスリア)(Masuria)地方のマスリア人(Masurians)、ポメラニア地方のカシュビア人 (Kashubians) やスロビンシア人 (Slovincians)、上シレジア地方 (Upper Silesia) のシレジア人 (Silesians) など、300万人近いスラブ系の人々で、彼らの先祖はポーランド分割よりも前の時代の、中世および近代のポーランド国家に属していたことがあったが、この時代には自らが現代ポーランド国家の国民だというアイデンティティはもっていない者が多かった。ポーランド政府は、プロパガンダのために、こうした先住民たちができるだけ現地に留まるように努めた。旧ドイツ領における彼らの存在は、地域固有の「ポーランドらしさ」を示すものであるとされ、その地域を回復領としてポーランド国家に併合することを正当化するものとされていた。先住民たちの「隠されたポーランドらしさ」を明らかにし、ポーランド市民としてふさわしい振る舞いの者を選別する、「確認」と「国民復帰」の過程が用意され、それにはじかれたごく少数の人々は本当に追放された。「先住民」たちはこの主観的でしばしば恣意的な確認作業を嫌っていたが、それを終えた後でも、差別に直面することがあった。名をポーランド語の綴りにするよう強要したことなども、その一例である(名は行政事務上の理由から、リストで指定された男女の名それぞれ数十種類から選択することが法律で定められており、その法律はポーランド民主化後の1990年代でもしばらくの間は続いていた。姓については、ドイツ系の姓をポーランド風の綴りに変える者もいたが、そのまま残すことも許されていた。そのためポーランドにはドイツ系の姓も数多く存在する)。ルブシュ県の当局は 、1948年の時点で、中央の当局が発見したと主張している「先住民」ポーランド人たちは、戦前の国境に接していたバビモスト(Babimost)村の住民を唯一の例外として、いずれも19世紀末から20世紀はじめに他地域から移住してきたポーランド人労働者がドイツ化したものに過ぎない、ということを認めていた
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