「半農半宿」期とは? わかりやすく解説

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「半農半宿」期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:54 UTC 版)

大内宿」の記事における「「半農半宿」期」の解説

江戸時代会津西街道(別名:下野街道南山通り)の宿場として、寛永20年1643年)頃に開かれ盆地内を北北東から南南西に貫く街道沿って整然とした屋敷割街並み形作られた。同街道は、会津藩若松城会津若松市追手町地図)を出ると、福永宿(会津美里町氷玉福永地図)、関山宿(会津美里町氷玉関山地図)を経て山岳地に入り氷玉峠北緯3721分52.8秒 東経13952分42.5秒 / 北緯37.364667度 東経139.878472度 / 37.364667; 139.878472 (氷玉峠))および大内峠北緯3721分25.9秒 東経13952分48.8秒 / 北緯37.357194度 東経139.880222度 / 37.357194; 139.880222 (大内峠))を越えて大内宿入った大内宿からは中山峠北緯3717分2.6秒 東経13950分53.3秒 / 北緯37.284056度 東経139.848139度 / 37.284056; 139.848139 (中山峠))を越えて倉谷宿(地図)に入り日光街道今市宿栃木県日光市今市地図)へと至った若松城から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣脇本陣設置され会津藩参勤交代や迴米の集散地として重要なとなった延宝8年1680年)、江戸幕府参勤交代脇街道通行厳しく取り締まるようになったため、正保元年1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩参勤交代途絶え白河藩白河城下町経由白河街道シフトした。すると、会津西街道中附駑者(なかづけどじゃ)と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後天和3年9月1日1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山地図)が一部崩壊し五十里宿(いかりじゅく)および周辺街道堰止湖水没五十里ダム参照)。会津藩会津西街道機能不全回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道物流シフトしてしまった。40年後の享保8年1723年9月9日)、大雨によって堰止湖決壊すると会津西街道復旧したが、すでに定着した代替路や新たな脇街道との間で物流競争余儀なくされた。そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく半農半宿」の様相であった考えられている。 慶応4年/明治元年1868年)の会津戦争戊辰戦争)で大内村戦場となったが、宿場戦禍逃れた明治4年7月14日1871年8月29日)の廃藩置県若松県となったが、1876年明治9年8月21日同県福島県合併したため、大内村福島県になった。なお、1878年明治11年)にイザベラ・バード大内宿美濃屋宿泊しているが、一行会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠選択せず、市野峠越える道を選んでいる。なお当地では、幕末から出稼ぎ始まったようである。

※この「「半農半宿」期」の解説は、「大内宿」の解説の一部です。
「「半農半宿」期」を含む「大内宿」の記事については、「大内宿」の概要を参照ください。

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