「半農半宿」期
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江戸時代に会津西街道(別名:下野街道、南山通り)の宿場として、寛永20年(1643年)頃に開かれ、盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られた。同街道は、会津藩・若松城(会津若松市追手町。地図)を出ると、福永宿(会津美里町氷玉福永。地図)、関山宿(会津美里町氷玉関山。地図)を経て山岳地に入り、氷玉峠(北緯37度21分52.8秒 東経139度52分42.5秒 / 北緯37.364667度 東経139.878472度 / 37.364667; 139.878472 (氷玉峠))および大内峠(北緯37度21分25.9秒 東経139度52分48.8秒 / 北緯37.357194度 東経139.880222度 / 37.357194; 139.880222 (大内峠))を越えて大内宿に入った。大内宿からは中山峠(北緯37度17分2.6秒 東経139度50分53.3秒 / 北緯37.284056度 東経139.848139度 / 37.284056; 139.848139 (中山峠))を越えて倉谷宿(地図)に入り、日光街道・今市宿(栃木県日光市今市。地図)へと至った。若松城から江戸までは61里、5泊6日ほどの旅程であるが、若松から5里の距離にある大内宿には本陣や脇本陣が設置され、会津藩の参勤交代や迴米の集散地として重要な駅となった。 延宝8年(1680年)、江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったため、正保元年(1644年)から同年まで計21回あった大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え、白河藩・白河城下町経由の白河街道にシフトした。すると、会津西街道は中附駑者(なかづけどじゃ)と呼ばれる流通業者が主に使用する街道となったが、3年後の天和3年9月1日(1683年10月20日)の日光地震によって戸板山(現・葛老山。地図)が一部崩壊し、五十里宿(いかりじゅく)および周辺の街道が堰止湖に水没(五十里ダム参照)。会津藩は会津西街道の機能不全を回復しようとしたが、代替路として新規開通した会津中街道に物流はシフトしてしまった。40年後の享保8年(1723年9月9日)、大雨によって堰止湖が決壊すると会津西街道は復旧したが、すでに定着した代替路や新たな脇街道との間で物流の競争を余儀なくされた。そのため大内宿は、純粋な宿場町ではなく「半農半宿」の様相であったと考えられている。 慶応4年/明治元年(1868年)の会津戦争(戊辰戦争)で大内村も戦場となったが、宿場は戦禍を逃れた。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県で若松県下となったが、1876年(明治9年)8月21日に同県が福島県と合併したため、大内村は福島県下になった。なお、1878年(明治11年)にイザベラ・バードが大内宿の美濃屋に宿泊しているが、一行が会津若松方面に向かう際には会津西街道沿いの大内峠を選択せず、市野峠を越える道を選んでいる。なお当地では、幕末から出稼ぎが始まったようである。
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