「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」の展開
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「アウトサイダー・アート」の記事における「「アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」の展開」の解説
イギリスの美術評論家のロジャー・カーディナルは、1972年の著書『アウトサイダー・アート』 においてアウトサイダー・アートという言葉を最初に使った。デュビュッフェが1945年に、アール・ブリュットと呼んだのは、強迫的幻視者や精神障害者の作品である。一方カーディナルによれば、アウトサイダー・アートとは、強迫的な幻視者や精神障害者などの社会の外側に取り残された者の作品で、美術教育を受けていない独学自習であるということである。つまり、カーディナルは概念を広げ、精神障害以外にも主流の外側で制作する人々を含めたのである。カーディナルの基準とは、訓練されずに、歴史的分類に規定されるような作品を作りたいという衝動である。そうして、プリミティブ・アートや、民族芸術、ホームレスの作品などが含められるようになった。1989年にイギリスでアウトサイダー・アートの専門誌である Raw Vision が創刊されたが、同誌はアール・ブリュット、コンテンポラリー・フォーク・アート(大衆芸術)、幻視芸術のような同類の分野も取り扱っている。アウトサイダー・アートという言葉はアール・ブリュットよりも広く、大衆芸術、幻視芸術のような他の用語を取り込んでいっており、その範囲は極めて拡大していっておりあらゆる新しいジャンルを含めていっている。 「アウトサイダー・アート」という言葉が広く理解されるようになったきっかけは「パラレル・ヴィジョン-20世紀美術とアウトサイダー・アート」展の開催である。この展覧会は,1992年から93年にロサンゼルスのカウンティ美術館で開かれ、マドリード、バーゼルを巡回した後、1993年9月から12月にかけて東京の世田谷美術館でも開催された。コンパルシヴ(強迫観念にとらわれた)、アントート(教育によらない)、ヴィジョナリー(幻視的)といった特徴のある作家が集められた。これはデビュッフェが、アール・ブリュットと定義した概念と似ている。企画者のモーリス・タックマン(英語版)は、当初、部族のシャーマン的美術やアボリジニの樹皮絵画、アクリル絵画、精神病院に隔離され完全に阻害された人々の美術を含めようとしていたが、収拾がつかなくなったのか、強迫的幻視者と精神病者の造形に縮小された。そこには心霊術者エレーヌ・スミスやマッジ・ギルの作品も含まれた。
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