「アーリア条項」の修正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「ニュルンベルク法」の記事における「「アーリア条項」の修正」の解説
しかし完全ユダヤ人、第一級ユダヤ人混血(ハーフ・ユダヤ人)、第二級ユダヤ人混血(クォーター・ユダヤ人)を合わせると150万人近くになり(1937年ドイツ内務省調査)、これほどの人間をドイツ社会から完全に排除してしまうことは問題が多かった。 特に困るのがドイツ国防軍の兵役の問題であった。国防軍は1934年2月28日に「アーリア条項」を受け入れたが、1935年3月16日にヴェルサイユ条約破棄と徴兵制の復活が宣言されると、150万人ものユダヤ人とユダヤ人混血を兵役対象外にしてしまうことに難色を示した。アドルフ・ヒトラーもそれに同意した。ヒトラーは1935年7月25日に「非アーリア人種の中でも第一級ユダヤ人混血と第二級ユダヤ人混血については、これまでの行動に政治的問題(左翼活動など)がなければ、ドイツ国防軍の兵役に服すことができる」と定めている。 ユダヤ人の範囲を限定する必要性に迫られるようになり、ナチ党でもユダヤ人の定義を再定義する論議が加速した。1935年初頭にはナチ党保健本部長ゲルハルト・ヴァーグナー(ドイツ語版)博士とナチ党人種政策局長ヴァルター・グロース(ドイツ語版)博士、後に保健本部長代理となるクルト・ブローメ(ドイツ語版)博士らの間で「ユダヤ人」の定義の問題が話し合われた。ブローメは「部分ユダヤ人」の概念を創設することを望まず、第二級ユダヤ人混血(四分の一ユダヤ人)は全員ドイツ人とし、第一級ユダヤ混血(二分の一ユダヤ人)は全員ユダヤ人とするべきであると提案した。この見方が後にナチ党の基本方針となった。 一方、内務省次官ヴィルヘルム・シュトゥッカートや内務省人種課長ベルンハルト・レーゼナー(ドイツ語版)は混血はすべて「ユダヤ人」の定義から除外して「完全ユダヤ人」(両親ともにユダヤ人)のみをユダヤ人にしようと提案したが、限定しすぎているとしてヒトラーに却下された。
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