遠藤周作
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略年譜
- 1923年(大正12年)
- 3月27日 - 東京巣鴨に生まれる。
- 1926年(大正15年・昭和元年)
- 1929年(昭和4年)
- 大連市の大広場小学校に入学。
- 1933年(昭和8年)
- 1935年(昭和10年)
- 1940年(昭和15年)
- 灘中学校卒業。
- 1941年(昭和16年)
- 4月 - 上智大学予科甲類に入学し籍を置くが、なお旧制高校をめざして受験勉強を続ける。
- 1942年(昭和17年)
- 2月 - 上智大学予科を退学。旧制高校受験の失敗が続くが、母の経済的負担を考え、経堂の父の家に移る。
- 1943年(昭和18年)
- 1945年(昭和20年)
- 慶應義塾大学文学部仏文科に進学。
- 1946年(昭和21年)
- 父の家に戻る。
- 1947年(昭和22年)
- 12月 - 処女評論『神々と神と』が神西清に認められ、『四季』第5号(角川書店)に掲載。
- 1948年(昭和23年)
- 3月 - 慶應義塾大学仏文科卒業。松竹大船撮影所の助監督採用試験に失敗。
- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 6月 - 戦後初のフランスへの留学生として渡欧。
- 10月 - リヨン大学に入学。
- 1951年(昭和26年)
- 夏 - モーリヤックの『テレーズ・デスケイルウ』の舞台であるランド地方を徒歩旅行。
- 1953年(昭和28年)
- パリに移る。体調を崩し入院。
- 2月 - 帰国。
- 7月 - 『フランスの大学生』を早川書房より刊行。
- 12月 - 母郁死去。
- 1954年(昭和29年)
- 4月 - 文化学院の講師を務める。安岡章太郎の紹介で構想の会に参加し、知己を広げる。奥野健男の紹介で現代評論に参加し、6・12月号に『マルキ・ド・サド評伝』を発表。
- 11月、三田文学に処女小説『アデンまで』を発表。
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 6月 - 長男龍之介誕生。上智大学文学部の講師を務める。
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 11月 - マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために夫人を同伴してフランスに旅行、翌年1月に帰国。
- 1960年(昭和35年)
- 4月 - 帰国後に体調を崩し、東京大学伝染病研究所病院に入院。年末に慶應義塾大学病院に転院。
- 1961年(昭和36年)
- 1月 - 3回にわたり肺の手術を行なう。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。
- 1962年(昭和37年)
- - 5月、退院。
- 1963年(昭和38年)
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
- - 三田文学の編集長に就任( - 1969年)。
- 4月 - 劇団「樹座」を立ち上げ、紀伊國屋ホールでウィリアム・シェークスピアの『ロミオとジュリエット』を上演。
- 1969年(昭和44年)
- 1月 - 新潮社の書き下ろし小説『薔薇の館・黄金の国』制作のための下調べ/取材で、イスラエルに旅行し、2月に帰国。
- 4月 - アメリカ国務省の招待を受け、アメリカに旅行し、5月に帰国。
- 1970年(昭和45年)
- 1971年(昭和46年)
- 11月 - 戯曲『メナム川の日本人』制作のための下調べ/取材で、タイのアユタヤに旅行。その後、ベナレス、イスタンブール、ストックホルム、パリを廻り、同月帰国。ローマ法皇庁からシルベストリー勲章を受ける。
- 1972年(昭和47年)
- 3月 - ローマ法王謁見のため、三浦朱門、曽野綾子とともにローマを旅行。その後、書きかけの小説『死海のほとり』を仕上げるため、イスラエルに立ち寄り、4月に帰国。
- 5月 - 中央教育審議会の委員を引き受ける[17]。
- 10月 - 日本文芸家協会常任理事に就任。遠藤周作作品が欧米で翻訳され始める。この年には『海と毒薬』がイギリスで、『沈黙』がオランダ、スウェーデン、スペイン、ノルウェー、フランス、ポーランドで翻訳出版された。
- 1973年(昭和48年)
- 3月 - 「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」で、ロンドン、パリ、ミラノ、スペイン(アンダルシア州)を廻り、4月に帰国。
- 1974年(昭和49年)
- 5月 - 仕事場を代々木富ヶ谷に移す。
- 10月 - 新潮社の書き下ろし小説『彼の生き方』制作のための下調べ/取材で、メキシコに旅行し、同月に帰国。
- 1975年(昭和50年)
- - 2月、北杜夫、阿川弘之とともにロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人のための講演旅行、同月に帰国。
- 1976年(昭和51年)
- 1月 - 面白半分の編集長に就任( - 6月)。
- 6月 - 『鉄の首枷-小西行長伝』の取材で大韓民国へ旅行し、豊浦、釜山、熊川、慶州、蔚山を廻り、同月帰国。9月にはジャパン・ソサエティの招待を受け、アメリカに旅行。ニューヨーク]講演した後、ロサンゼルス、サンフランシスコを廻り、同月帰国。
- 12月 - ピエトゥシャック賞を受賞。授賞式参加のため、ポーランドのワルシャワに旅行、その後アウシュヴィッツを見学し、同月に帰国。
- 1977年(昭和52年)
- 1月 - 芥川賞選考委員に就任( - 1987年)。
- 5月 - 兄死去。
- 1978年(昭和53年)
- 6月 - 『イエスの生涯』で国際ダグ・ハマーショルド賞を受賞。
- 1979年(昭和54年)
- 2月 - 『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞を受賞。『王国への道-山田長政』の取材でタイのアユタヤに旅行し、同月帰国。
- 3月 - 中華人民共和国に旅行。46年ぶりに幼少時代の想い出の地大連を訪れる。同月帰国。
- 4月 - 翻訳出版のトラブル解消のため、イギリスロンドンに旅行。その後、パリ、ローマを廻り、同月帰国。日本芸術院賞を受賞[18]。
- 1980年(昭和55年)
- 5月 - 劇団「樹座」のニューヨーク公演。ジャパン・ソサエティで『カルメン』を上演。『侍』で第33回野間文芸賞を受賞。
- 1981年(昭和56年) - 日本芸術院会員になる。
- 1985年(昭和60年)
- 4月 - イギリス、スウェーデン、フィンランドを旅行し、同月に帰国。ロンドンのホテルでグレアム・グリーンと鉢合わせし、文学論を交わした。
- 6月 - 日本ペンクラブ第10代会長に就任( - 1989年)。サンタクララ大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、カリフォルニア大学のジャック=マリタン・アンド・トーマス=モア研究所で講演を行ない、同月に帰国。
- 1986年(昭和61年)
- 2月 - 代々木富ヶ谷の仕事場を仮住まいにする。劇団「樹座」のロンドン公演。ジャネッタ・コクラン劇場で『蝶々夫人』を上演。
- 11月 - 台湾の輔仁大学の招待を受け、台湾に旅行。「宗教と文学の会」で講演を行い、同月に帰国。
- 1987年(昭和62年)
- 1988年(昭和63年)
- 1989年(昭和64年・平成元年)
- 12月 - 父常久死去。
- 1990年(平成2年)
- 2月 - 『深い河』の制作のための下調べ/取材で、インドに旅行し、同月帰国。
- 7月 - 仕事場を上大崎に移す。
- 10月 - アメリカのキャンピオン賞を受賞。
- 1991年(平成3年)
- 1月、三田文学会理事長に就任( - 1995年)。
- 5月 - ジョン・キャロル大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、マーティン・スコセッシと『沈黙』の映画化について話し合い、同月帰国。
- 12月 - 輔仁大学の名誉博士号を受けるため、台湾に旅行、同月帰国。
- 1993年(平成5年)
- 5月 - 腹膜透析の手術を行う。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。以後、入退院を繰り返すことになる。
- 1995年(平成7年)
- 9月 - 脳内出血で順天堂大学病院に入院。
- 11月 - 文化勲章受章。
- 12月 - 退院。
- 1996年(平成8年)
- 4月 - 腎臓病治療のため、慶應義塾大学病院に入院。
- 9月29日 - 午後6時36分、肺炎による呼吸不全で死去。
注釈
- ^ 遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は加藤宗哉が詳しい。
- ^ この試験の際に採用されたのが鈴木清順である。
- ^ 「海と毒薬」に対する一部からの反発は強く、発表後、遠藤家に「死ね」と書かれた血書や、「日本の恥部を抉ってどうするつもりだ」という脅迫状、果てには日本刀が送り付けられた。
- ^ 1953年死去、当時はまだ土葬だった。
- ^ 医師森納によれば「医師の諸身分について、江戸時代には封建制上の身分によって大別すれば、藩医・町医師・在医師の区別があった。藩医は、藩によって召し抱えられた医師である。それに準ずる身分として鳥取藩の場合、東西両分知家と着座家に召し抱えられた医師、即ち陪臣医があった。藩医・陪臣医は俗に“御典医”と呼ばれ、武士身分の処遇をうけた。町医師は、鳥取城下・米子・倉吉等の町で町奉行支配を受けた町民医師である。藩医には御医師、無足医師の区別があった。御医師は城詰を命ぜられた医師である。藩臣の礼席上の地位では、御近習の次席に置かれたので、御近習医師とも呼ばれた。次に、士分格医師の初級の者が無足医師である。町医師から抜擢されて藩に召し抱えられ士分取り立てとなった際、まず無足医師とされ、五人扶持を与えられるのが普通であった[19]。
- ^ 医師森納によれば「御近習医師の筆頭が御匕役で、内科の医師のうち特に業務の勝れた者が選ばれた。御匕役は大体2人か3人で、藩主の日常の健康管理、投薬、膳部の毒味などに当たった[21]。
出典
- ^ a b c “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月22日閲覧。
- ^ 湯梨浜町企画情報課(編)「遠藤周作氏のルーツ」『広報ゆりはま』2007年1月号、鳥取県東伯郡湯梨浜町、2007年、2019年3月15日閲覧。
- ^ 加藤 2006, p. 不明.
- ^ 桑原真夫『フランソワーズ・パストル』論創社 2022年
- ^ a b 戸板康二『思い出す顔』(講談社)P.54[要文献特定詳細情報]
- ^ a b “第28回文学講座(H27.2.2)”遠藤周作文学館(長崎市)
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- ^ カトリック新聞 1979年4月8日付
- ^ ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 4-6頁[要文献特定詳細情報]
- ^ ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 25-26頁
- ^ 「有吉氏らが委員に 新中教審の18氏決る」『朝日新聞』昭和47年(1972年)5月30日夕刊、3版、3面
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- ^ フジ新社長の遠藤龍之介氏「高卒社長誕生」デマ語る [2019年5月14日5時1分] - 『日刊スポーツ』
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- ^ “遠藤周作さん未発表小説発見 長崎の文学館 完成状態では初”. 西日本新聞ニュース. 2020年10月1日閲覧。
- ^ 川崎友理子 (2020). “遠藤周作未発表小説「影に対して」について”. 三田文学 夏季号: 50.
- ^ “遠藤周作 『影に対して―母をめぐる物語―』 | 新潮社”. www.shinchosha.co.jp. 2020年11月14日閲覧。
- ^ “作品情報 - 黄金の国”. 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター. 2019年3月15日閲覧。
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