遠藤周作 略年譜

遠藤周作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 23:19 UTC 版)

略年譜

  • 1923年(大正12年)
3月27日 - 東京巣鴨に生まれる。
  • 1926年(大正15年・昭和元年)
父の転勤により、満洲関東州、大連に移る。
  • 1929年(昭和4年)
大連市の大広場小学校に入学。
  • 1933年(昭和8年)
父母の離婚により母に連れられて兄とともに日本に帰国し神戸市の六甲小学校に転校する。
  • 1935年(昭和10年)
私立灘中学校に入学。
4月 - 母は宝塚市の小林聖心女子学院の音楽教師になり5月29日受洗
6月 - 周作も兄とともに西宮市夙川カトリック教会で受洗。洗礼名ポール。
  • 1940年(昭和15年)
灘中学校卒業。
  • 1941年(昭和16年)
4月 - 上智大学予科甲類に入学し籍を置くが、なお旧制高校をめざして受験勉強を続ける。
  • 1942年(昭和17年)
2月 - 上智大学予科を退学。旧制高校受験の失敗が続くが、母の経済的負担を考え、経堂の父の家に移る。
  • 1943年(昭和18年)
- 慶應義塾大学文学部予科に入学。しかし父が命じた医学部を受けなかったため勘当され、父の家を出てアルバイト生活を続ける。友人宅にころがりこんだ後、学生寮に入る。
  • 1945年(昭和20年)
慶應義塾大学文学部仏文科に進学。
  • 1946年(昭和21年)
父の家に戻る。
  • 1947年(昭和22年)
12月 - 処女評論『神々と神と』が神西清に認められ、『四季』第5号(角川書店)に掲載。
  • 1948年(昭和23年)
3月 - 慶應義塾大学仏文科卒業。松竹大船撮影所の助監督採用試験に失敗。
  • 1949年(昭和24年)
6月 - 鎌倉文庫嘱託になり、外国文学辞典編纂に従事したが、同社はまもなく倒産。カトリック・ダイジェスト社で働く。三田文学同人になる。
  • 1950年(昭和25年)
6月 - 戦後初のフランスへの留学生として渡欧。
10月 - リヨン大学に入学。
  • 1951年(昭和26年)
夏 - モーリヤックの『テレーズ・デスケイルウ』の舞台であるランド地方を徒歩旅行。
  • 1953年(昭和28年)
パリに移る。体調を崩し入院。
2月 - 帰国。
7月 - 『フランスの大学生』を早川書房より刊行。
12月 - 母郁死去。
  • 1954年(昭和29年)
4月 - 文化学院の講師を務める。安岡章太郎の紹介で構想の会に参加し、知己を広げる。奥野健男の紹介で現代評論に参加し、6・12月号に『マルキ・ド・サド評伝』を発表。
11月、三田文学に処女小説『アデンまで』を発表。
  • 1955年(昭和30年)
7月 - 『白い人』で第33回芥川賞を受賞。
9月 - 岡田幸三郎の長女、順子と結婚。父の家で短期間同居の後、世田谷区松原に転居。
  • 1956年(昭和31年)
6月 - 長男龍之介誕生。上智大学文学部の講師を務める。
  • 1958年(昭和33年)
10月 - アジア・アフリカ作家会議に参加。
12月 - 『海と毒薬』で第5回新潮社文学賞、第12回毎日出版文化賞を受賞。
  • 1959年(昭和34年)
11月 - マルキ・ド・サドの勉強/さらに理解を深めるために夫人を同伴してフランスに旅行、翌年1月に帰国。
  • 1960年(昭和35年)
4月 - 帰国後に体調を崩し、東京大学伝染病研究所病院に入院。年末に慶應義塾大学病院に転院。
  • 1961年(昭和36年)
1月 - 3回にわたり肺の手術を行なう。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。
  • 1962年(昭和37年)
- 5月、退院。
  • 1963年(昭和38年)
3月 - 町田市玉川学園に転居。新居を「狐狸庵」と名付け、以降「狐狸庵山人」という雅号を使い始める。
  • 1965年(昭和40年)
- 新潮社の書き下ろし小説『沈黙』制作のための下調べ/取材で、三浦朱門とともに長崎・平戸を数回旅行。
  • 1966年(昭和41年)
3月 - 『沈黙』を刊行。
成城大学の講師を務める( - 1969年)
5月 - 劇団雲で戯曲『黄金の国』(演出:芥川比呂志)初演。
10月、『沈黙』で第2回谷崎潤一郎賞を受賞。
  • 1967年(昭和42年)
8月、ポルトガル大使アルマンド・マルチンスの招待を受け、アウブフェーラで行われた聖ヴィンセントの300年祭で記念講演。その後、リスボン、パリ、ローマを廻り、9月に帰国。
  • 1968年(昭和43年)
- 三田文学の編集長に就任( - 1969年)。
4月 - 劇団「樹座」を立ち上げ、紀伊國屋ホールウィリアム・シェークスピアの『ロミオとジュリエット』を上演。
  • 1969年(昭和44年)
1月 - 新潮社の書き下ろし小説『薔薇の館・黄金の国』制作のための下調べ/取材で、イスラエルに旅行し、2月に帰国。
4月 - アメリカ国務省の招待を受け、アメリカに旅行し、5月に帰国。
  • 1970年(昭和45年)
4月 - 矢代静一阪田寛夫井上洋治とともにイスラエルに旅行し、5月に帰国。
  • 1971年(昭和46年)
11月 - 戯曲『メナム川の日本人』制作のための下調べ/取材で、タイのアユタヤに旅行。その後、ベナレスイスタンブール、ストックホルム、パリを廻り、同月帰国。ローマ法皇庁からシルベストリー勲章を受ける。
  • 1972年(昭和47年)
3月 - ローマ法王謁見のため、三浦朱門曽野綾子とともにローマを旅行。その後、書きかけの小説『死海のほとり』を仕上げるため、イスラエルに立ち寄り、4月に帰国。
5月 - 中央教育審議会の委員を引き受ける[17]
10月 - 日本文芸家協会常任理事に就任。遠藤周作作品が欧米で翻訳され始める。この年には『海と毒薬』がイギリスで、『沈黙』がオランダ、スウェーデン、スペイン、ノルウェー、フランス、ポーランドで翻訳出版された。
  • 1973年(昭和48年)
3月 - 「遠藤周作氏と行くヨーロッパ演劇の旅」で、ロンドン、パリ、ミラノ、スペイン(アンダルシア州)を廻り、4月に帰国。
  • 1974年(昭和49年)
5月 - 仕事場を代々木富ヶ谷に移す。
10月 - 新潮社の書き下ろし小説『彼の生き方』制作のための下調べ/取材で、メキシコに旅行し、同月に帰国。
  • 1975年(昭和50年)
- 2月、北杜夫、阿川弘之とともにロンドン、フランクフルト、ブリュッセルで在留日本人のための講演旅行、同月に帰国。
  • 1976年(昭和51年)
1月 - 面白半分の編集長に就任( - 6月)。
6月 - 『鉄の首枷-小西行長伝』の取材で大韓民国へ旅行し、豊浦、釜山熊川慶州蔚山を廻り、同月帰国。9月にはジャパン・ソサエティの招待を受け、アメリカに旅行。ニューヨーク]講演した後、ロサンゼルス、サンフランシスコを廻り、同月帰国。
12月 - ピエトゥシャック賞を受賞。授賞式参加のため、ポーランドワルシャワに旅行、その後アウシュヴィッツを見学し、同月に帰国。
  • 1977年(昭和52年)
1月 - 芥川賞選考委員に就任( - 1987年)。
5月 - 兄死去。
  • 1978年(昭和53年)
6月 - 『イエスの生涯』で国際ダグ・ハマーショルド賞を受賞。
  • 1979年(昭和54年)
2月 - 『キリストの誕生』で第30回読売文学賞評論・伝記賞を受賞。『王国への道-山田長政』の取材でタイのアユタヤに旅行し、同月帰国。
3月 - 中華人民共和国に旅行。46年ぶりに幼少時代の想い出の地大連を訪れる。同月帰国。
4月 - 翻訳出版のトラブル解消のため、イギリスロンドンに旅行。その後、パリ、ローマを廻り、同月帰国。日本芸術院賞を受賞[18]
  • 1980年(昭和55年)
5月 - 劇団「樹座」のニューヨーク公演。ジャパン・ソサエティで『カルメン』を上演。『侍』で第33回野間文芸賞を受賞。
  • 1981年(昭和56年) - 日本芸術院会員になる。
  • 1985年(昭和60年)
4月 - イギリス、スウェーデン、フィンランドを旅行し、同月に帰国。ロンドンのホテルでグレアム・グリーンと鉢合わせし、文学論を交わした。
6月 - 日本ペンクラブ第10代会長に就任( - 1989年)。サンタクララ大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、カリフォルニア大学のジャック=マリタン・アンド・トーマス=モア研究所で講演を行ない、同月に帰国。
  • 1986年(昭和61年)
2月 - 代々木富ヶ谷の仕事場を仮住まいにする。劇団「樹座」のロンドン公演。ジャネッタ・コクラン劇場で『蝶々夫人』を上演。
11月 - 台湾の輔仁大学の招待を受け、台湾に旅行。「宗教と文学の会」で講演を行い、同月に帰国。
  • 1987年(昭和62年)
5月 - ジョージタウン大学の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行し、同月帰国。
10月 - 韓国文化院の招待を受け、大韓民国に旅行し、同月帰国。尹興吉との知遇を得る。
  • 1988年(昭和63年)
4月 - 夫人を同伴してロンドンに旅行し、同月帰国。
8月 - 国際ペンクラブのソウル大会出席のため、大韓民国に旅行し、翌月帰国。文化功労者に選出される。
  • 1989年(昭和64年・平成元年)
12月 - 父常久死去。
  • 1990年(平成2年)
2月 - 『深い河』の制作のための下調べ/取材で、インドに旅行し、同月帰国。
7月 - 仕事場を上大崎に移す。
10月 - アメリカのキャンピオン賞を受賞。
  • 1991年(平成3年)
1月、三田文学会理事長に就任( - 1995年)。
5月 - ジョン・キャロル大学英語版の名誉博士号を受けるため、アメリカに旅行。その後、マーティン・スコセッシと『沈黙』の映画化について話し合い、同月帰国。
12月 - 輔仁大学の名誉博士号を受けるため、台湾に旅行、同月帰国。
  • 1993年(平成5年)
5月 - 腹膜透析の手術を行う。一時は危篤状態までに陥ったが、奇跡的に回復する。以後、入退院を繰り返すことになる。
  • 1995年(平成7年)
9月 - 脳内出血で順天堂大学病院に入院。
11月 - 文化勲章受章。
12月 - 退院。
  • 1996年(平成8年)
4月 - 腎臓病治療のため、慶應義塾大学病院に入院。
9月29日 - 午後6時36分、肺炎による呼吸不全で死去。

注釈

  1. ^ 遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は加藤宗哉が詳しい。
  2. ^ この試験の際に採用されたのが鈴木清順である。
  3. ^ 「海と毒薬」に対する一部からの反発は強く、発表後、遠藤家に「死ね」と書かれた血書や、「日本の恥部を抉ってどうするつもりだ」という脅迫状、果てには日本刀が送り付けられた。
  4. ^ 1953年死去、当時はまだ土葬だった。
  5. ^ 医師森納によれば「医師の諸身分について、江戸時代には封建制上の身分によって大別すれば、藩医・町医師・在医師の区別があった。藩医は、によって召し抱えられた医師である。それに準ずる身分として鳥取藩の場合、東西両分知家と着座家に召し抱えられた医師、即ち陪臣医があった。藩医・陪臣医は俗に“御典医”と呼ばれ、武士身分の処遇をうけた。町医師は、鳥取城下・米子倉吉等の町で町奉行支配を受けた町民医師である。藩医には御医師、無足医師の区別があった。御医師は城詰を命ぜられた医師である。藩臣の礼席上の地位では、御近習の次席に置かれたので、御近習医師とも呼ばれた。次に、士分格医師の初級の者が無足医師である。町医師から抜擢されて藩に召し抱えられ士分取り立てとなった際、まず無足医師とされ、五人扶持を与えられるのが普通であった[19]
  6. ^ 医師森納によれば「御近習医師の筆頭が御匕役で、内科の医師のうち特に業務の勝れた者が選ばれた。御匕役は大体2人か3人で、藩主の日常の健康管理、投薬、膳部の毒味などに当たった[21]

出典

  1. ^ a b c 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月22日閲覧。
  2. ^ 湯梨浜町企画情報課(編)「遠藤周作氏のルーツ」『広報ゆりはま』2007年1月号、鳥取県東伯郡湯梨浜町、2007年、2019年3月15日閲覧 
  3. ^ 加藤 2006, p. 不明.
  4. ^ 桑原真夫『フランソワーズ・パストル』論創社 2022年
  5. ^ a b 戸板康二『思い出す顔』(講談社)P.54[要文献特定詳細情報]
  6. ^ a b 第28回文学講座(H27.2.2)”遠藤周作文学館(長崎市)
  7. ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)50頁
  8. ^ a b c d e 遠藤 2000, p. 不明.
  9. ^ さくらももこ『さるのこしかけ』(集英社、1992年)25-30頁。
  10. ^ 兼子 1995, pp. 27–28.
  11. ^ 遠藤周作文学全集 vol. 12所収,「合わない洋服」(1967)
  12. ^ a b 長谷川(間瀬) 2008, p. 79-100.
  13. ^ 兼子 1995, p. 28.
  14. ^ カトリック新聞 1979年4月8日付
  15. ^ ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 4-6頁[要文献特定詳細情報]
  16. ^ ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 25-26頁
  17. ^ 「有吉氏らが委員に 新中教審の18氏決る」『朝日新聞』昭和47年(1972年)5月30日夕刊、3版、3面
  18. ^ 『朝日新聞』1979年3月6日(東京本社発行)朝刊、22頁。
  19. ^ 森 1993, pp. 15–16.
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 森 1985, p. 98.
  21. ^ 森 1993, p. 17.
  22. ^ a b c d e f g h i j 森 1985, p. 99.
  23. ^ 『遠藤周作のすべて』朝文社、1991年4月20日 1991、328頁。 
  24. ^ "故遠藤周作氏の妻、遠藤順子さん死去 文学館建設に尽力". 長崎新聞. 2021年3月12日. 2023年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月30日閲覧
  25. ^ 「高卒社長が誕生の可能性も!?」フジテレビ“次期社長レース”の行方、日刊サイゾー、2012年6月11日
  26. ^ フジテレビ社長に遠藤周作氏長男 「騒動」時に広報部長 2019年5月13日20時17分 - 『朝日新聞
  27. ^ フジ新社長の遠藤龍之介氏「高卒社長誕生」デマ語る [2019年5月14日5時1分] - 『日刊スポーツ
  28. ^ 「フジは「面白さ」を追求 遠藤龍之介社長に聞く」『読売新聞東京』、2019年9月9日、夕刊。
  29. ^ 過去の教科書 - 教育出版”. www.kyoiku-shuppan.co.jp. 2024年1月13日閲覧。
  30. ^ 過去の教科書 昭和52年度版”. 教育出版. 2022年11月30日閲覧。
  31. ^ 国立国会図書館. “所蔵調査 教科書に載った遠藤周作著「白い風船」について”. レファレンス協同データベース. 2022年11月30日閲覧。
  32. ^ 全日本CM協議会 編『CM25年史』講談社、1978年1月15日、245 - 246頁。NDLJP:12025175/127 
  33. ^ 「今月の広告批評」『広告批評』第128号、マドラ出版、1990年5月1日、106 - 107頁、NDLJP:1853094/55 
  34. ^ "遠藤周作 封印された原稿". NHK. 2021年10月9日. 2021年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月15日閲覧
  35. ^ "遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 「前編 日本人のキリスト教を求めて」". NHK. 2021年10月31日. 2021年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月28日閲覧
  36. ^ "遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 「後編 宗教の壁を越える"玉ねぎ"」". NHK. 2021年11月7日. 2021年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月5日閲覧
  37. ^ 遠藤周作の未発表作見つかる(2010年4月25日(日)掲載) - Yahoo!ニュース”. Yahoo Japan Corporation.. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月15日閲覧。
  38. ^ 遠藤周作さん未発表小説発見 長崎の文学館 完成状態では初”. 西日本新聞ニュース. 2020年10月1日閲覧。
  39. ^ 川崎友理子 (2020). “遠藤周作未発表小説「影に対して」について”. 三田文学 夏季号: 50. 
  40. ^ 遠藤周作 『影に対して―母をめぐる物語―』 | 新潮社”. www.shinchosha.co.jp. 2020年11月14日閲覧。
  41. ^ 作品情報 - 黄金の国”. 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター. 2019年3月15日閲覧。






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