遠藤周作 家族・親族

遠藤周作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 23:19 UTC 版)

家族・親族

遠藤家

鳥取県東京都
家系
  • 初代・元衛(元哲)
遠藤家は代々東分知家の御医師で、初代を元衛(元哲)といい、鳥取の町医師であった[注 5]宝暦14年(1764年)3月四代池田澄延に召抱えられ、名も元哲と改めた[20]。明和3年(1766年)侍医となり四人扶持を受けた[20]。続いて五代池田延俊の侍医となり、明和9年(1772年)に詰江戸を命ぜられ、二十俵支配と詰高五俵の二十五俵の加増を受けた[20]
  • 二代目・玄益
元哲に医師とする男子なく、藩医真嶋三随の甥である玄益を養子とした[20]安永4年(1775年)6月病没した[20]。玄益は養子のため、三人扶持を受けて家督相続し、天明8年(1788年)より藩邸や城中勤務をした[20]。勤務良好とあって翌寛政元年(1789年)には四人扶持となっている[20]。そして御近習医師に昇格し、詰江戸を命ぜられ寛政6年まで江戸三田邸に勤務した[20]。その後も度々江戸詰を命ぜられ五人扶持二十五俵の加増となり、寛政12年(1800年)3月から七代池田仲雅の御匕代役をした。享和2年に諸役から退き文化7年(1810年)正月に病没した[20]
  • 三代目・玄里
三代玄里は玄益の実子で四人扶持を継いだ。文政2年(1819年)より藩邸、城中勤務をし、江戸詰も度々命ぜられている[20]安政2年(1855年)同じ東分知家医師であった石原玄碩長男の隼見を養子とした[20]。玄里は翌安政3年(1856年)9月病没した[20]
  • 四代目・玄益
四代玄益は父玄碩や本藩の藩医大島秀洞(本道、二〇〇石)に学んでおり、医術もよくできた[20]。養子のため四人扶持十九俵を受けたが、翌年より城中勤務となり、安政6年(1859年)には九代池田仲立の御匕役[注 6]を勤めた[20]
玄益に子供がなく慶応2年(1866年)6月中村鼎斎の門人で、邑美郡田島村の岡田新左衛門の子である岡田謙三を養子に入れた[20]明治元年(1868年)よりその謙三に代番勤めをさせている[20]。しかし明治2年(1869年)より再び藩に勤務している[20]維新後の経歴は明らかでないが、河村郡下浅津村で開業していた[20]。そして医業のかたわら創立して間もない浅津学校の訓導校長を勤めた[22]。明治13年(1880年)に没した[22]
  • 謙三の子たち
謙三の子に又蔵、河津三、隼見の三子がいた[22]。又蔵は医師とならず東大理学部を卒業して早稲田の数学の教師となり、三男隼見は、東大経済学部を卒業して三菱商事に勤務した[22]
  • 謙三の二男河津三
二男河津三は、岡山の三高医学部を卒業して東京に出て済生学舎で修行し明治33年(1900年)開業試験に合格した[22]。一時横浜十全病院に勤めたのち明治35年(1902年)下浅津村に帰り、父の跡をついで医業をした[22]。医業は多忙を極め、その上、需められ東郷池の向う花見村長和田に出張診療所を設けて日夜診療に明け暮れたという[22]。河津三は郡医師会理事もつとめ、戦時中は満州開拓団の医師として2年ばかり夫婦で渡満し、帰国後再び浅津、長和田地区の診療をした[22]昭和24年(1949年)2月病没した[22]
家庭
養子常久は医師とならず東大法学部を卒業して安田銀行に勤務した[22]
  • - 郁子とも[23] 
  • 義母 秀子 - 父親の再婚相手。
  • 正介
東京大学法学部卒、電電公社総務理事。
東洋英和女学院、慶應義塾大学仏文科卒業。夫周作の死後、思い出を語った作品を残している(『夫・遠藤周作を語る』(聞き手鈴木秀子、文春文庫)、『夫の宿題』(2冊、PHP)ほか)。2021年1月16日、93歳で死去[24]
芥川賞受賞にちなんで龍之介と命名。フジテレビジョンに入社し、現在社長[25][26][27]。父周作との子どものころの約束は3つあり「うそをつかない。ともだちを裏切らない。弱い人間を馬鹿にしない」だった。
 小学生の時、「お日さまがカンカンに照って、汗がだらだらと流れました。」と遠足の作文を自宅で書いていたら、後ろで見ていた父周作に「暑さを表現するのなら日陰の涼しさを書け」と激怒され、しばらくトラウマになったという回想がある[28]
 また会話は、敬語を用い、周作からは含みを残す言い回しや比喩を用いた表現を常としたとの回想がある。

注釈

  1. ^ 遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は加藤宗哉が詳しい。
  2. ^ この試験の際に採用されたのが鈴木清順である。
  3. ^ 「海と毒薬」に対する一部からの反発は強く、発表後、遠藤家に「死ね」と書かれた血書や、「日本の恥部を抉ってどうするつもりだ」という脅迫状、果てには日本刀が送り付けられた。
  4. ^ 1953年死去、当時はまだ土葬だった。
  5. ^ 医師森納によれば「医師の諸身分について、江戸時代には封建制上の身分によって大別すれば、藩医・町医師・在医師の区別があった。藩医は、によって召し抱えられた医師である。それに準ずる身分として鳥取藩の場合、東西両分知家と着座家に召し抱えられた医師、即ち陪臣医があった。藩医・陪臣医は俗に“御典医”と呼ばれ、武士身分の処遇をうけた。町医師は、鳥取城下・米子倉吉等の町で町奉行支配を受けた町民医師である。藩医には御医師、無足医師の区別があった。御医師は城詰を命ぜられた医師である。藩臣の礼席上の地位では、御近習の次席に置かれたので、御近習医師とも呼ばれた。次に、士分格医師の初級の者が無足医師である。町医師から抜擢されて藩に召し抱えられ士分取り立てとなった際、まず無足医師とされ、五人扶持を与えられるのが普通であった[19]
  6. ^ 医師森納によれば「御近習医師の筆頭が御匕役で、内科の医師のうち特に業務の勝れた者が選ばれた。御匕役は大体2人か3人で、藩主の日常の健康管理、投薬、膳部の毒味などに当たった[21]

出典

  1. ^ a b c 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月22日閲覧。
  2. ^ 湯梨浜町企画情報課(編)「遠藤周作氏のルーツ」『広報ゆりはま』2007年1月号、鳥取県東伯郡湯梨浜町、2007年、2019年3月15日閲覧 
  3. ^ 加藤 2006, p. 不明.
  4. ^ 桑原真夫『フランソワーズ・パストル』論創社 2022年
  5. ^ a b 戸板康二『思い出す顔』(講談社)P.54[要文献特定詳細情報]
  6. ^ a b 第28回文学講座(H27.2.2)”遠藤周作文学館(長崎市)
  7. ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)50頁
  8. ^ a b c d e 遠藤 2000, p. 不明.
  9. ^ さくらももこ『さるのこしかけ』(集英社、1992年)25-30頁。
  10. ^ 兼子 1995, pp. 27–28.
  11. ^ 遠藤周作文学全集 vol. 12所収,「合わない洋服」(1967)
  12. ^ a b 長谷川(間瀬) 2008, p. 79-100.
  13. ^ 兼子 1995, p. 28.
  14. ^ カトリック新聞 1979年4月8日付
  15. ^ ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 4-6頁[要文献特定詳細情報]
  16. ^ ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 25-26頁
  17. ^ 「有吉氏らが委員に 新中教審の18氏決る」『朝日新聞』昭和47年(1972年)5月30日夕刊、3版、3面
  18. ^ 『朝日新聞』1979年3月6日(東京本社発行)朝刊、22頁。
  19. ^ 森 1993, pp. 15–16.
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 森 1985, p. 98.
  21. ^ 森 1993, p. 17.
  22. ^ a b c d e f g h i j 森 1985, p. 99.
  23. ^ 『遠藤周作のすべて』朝文社、1991年4月20日 1991、328頁。 
  24. ^ "故遠藤周作氏の妻、遠藤順子さん死去 文学館建設に尽力". 長崎新聞. 2021年3月12日. 2023年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月30日閲覧
  25. ^ 「高卒社長が誕生の可能性も!?」フジテレビ“次期社長レース”の行方、日刊サイゾー、2012年6月11日
  26. ^ フジテレビ社長に遠藤周作氏長男 「騒動」時に広報部長 2019年5月13日20時17分 - 『朝日新聞
  27. ^ フジ新社長の遠藤龍之介氏「高卒社長誕生」デマ語る [2019年5月14日5時1分] - 『日刊スポーツ
  28. ^ 「フジは「面白さ」を追求 遠藤龍之介社長に聞く」『読売新聞東京』、2019年9月9日、夕刊。
  29. ^ 過去の教科書 - 教育出版”. www.kyoiku-shuppan.co.jp. 2024年1月13日閲覧。
  30. ^ 過去の教科書 昭和52年度版”. 教育出版. 2022年11月30日閲覧。
  31. ^ 国立国会図書館. “所蔵調査 教科書に載った遠藤周作著「白い風船」について”. レファレンス協同データベース. 2022年11月30日閲覧。
  32. ^ 全日本CM協議会 編『CM25年史』講談社、1978年1月15日、245 - 246頁。NDLJP:12025175/127 
  33. ^ 「今月の広告批評」『広告批評』第128号、マドラ出版、1990年5月1日、106 - 107頁、NDLJP:1853094/55 
  34. ^ "遠藤周作 封印された原稿". NHK. 2021年10月9日. 2021年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月15日閲覧
  35. ^ "遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 「前編 日本人のキリスト教を求めて」". NHK. 2021年10月31日. 2021年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月28日閲覧
  36. ^ "遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 「後編 宗教の壁を越える"玉ねぎ"」". NHK. 2021年11月7日. 2021年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月5日閲覧
  37. ^ 遠藤周作の未発表作見つかる(2010年4月25日(日)掲載) - Yahoo!ニュース”. Yahoo Japan Corporation.. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月15日閲覧。
  38. ^ 遠藤周作さん未発表小説発見 長崎の文学館 完成状態では初”. 西日本新聞ニュース. 2020年10月1日閲覧。
  39. ^ 川崎友理子 (2020). “遠藤周作未発表小説「影に対して」について”. 三田文学 夏季号: 50. 
  40. ^ 遠藤周作 『影に対して―母をめぐる物語―』 | 新潮社”. www.shinchosha.co.jp. 2020年11月14日閲覧。
  41. ^ 作品情報 - 黄金の国”. 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター. 2019年3月15日閲覧。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「遠藤周作」の関連用語

遠藤周作のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



遠藤周作のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの遠藤周作 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS