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編布

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 18:57 UTC 版)

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アンギンの袖なし上衣

狭義では便宜的に、縄文時代の衣服の意で「アンギン」と称する場合がある[3]

日本遺産「『なんだ、コレは!』信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化」に特筆された越後アンギンがとくに知られる[4]

名称

考古学の観点から、縄文期の布に対する呼称として「アンギン」と命名したのは伊東信雄である[5]。「あみぎぬ」が変化して「アンギン」と呼ばれるようになったとみられる[2]

一方、アンギンの復元的研究が行われている新潟県では、制作された時代を問わず、自然植物の繊維を材料とし編み技術によって布とされたものを総称して「アンギン」と呼ぶ[6]。これらは袖なしの上衣、前掛け、前当てといった仕事着、袋などの製品に加工されて、昭和初期まで生活のなかで用いられた[6]。このうち、新潟県中魚沼郡津南町樽田では袖なしの上衣を「アンギン」と呼んだが、同じものを新潟県東頸城郡松代町(現・十日町市)では「マギン」と呼んでおり、民俗学者・小林存によるアンギン研究の過程で、1953年(昭和28年)以降に収集された製品の素材と技法の共通点から、以後は総じて「アンギン」と呼ぶようになった[6][7]。新潟の言葉では、「アンギン」の「ン」は「ミ」の訛りとみられる[8]

歴史

通史

製糸草木一覧(明治5年秋刊行『教草』より)

明治時代に機械生産による糸や布が普及する以前は、草や木の皮を剥いで、その繊維を糸として編み布や織り布が作られてきた。その材料となった草木は大麻苧麻イラクサ、アカソ、オヒョウ芭蕉などが知られている[9]。これらの自然植物の繊維を編んだ布・アンギンは、福井県三方郡にある縄文時代前期の鳥浜貝塚(約6,000年前)から発見されたものが現存する最古とみられる[9]。ほぼ同時代の出土例に、青森県三内丸山遺跡山形県の押出遺跡がある[10]。寒い地方では冬を過ごすために獣の皮を剥いで鞣した物をまとったと考えられ、世界各地にその例があるが[11]、高温多湿の日本の風土では獣皮とはべつの通気性のある衣服も必要だったと考えられ、それがアンギンであったと考えられている[12]。素材は大麻など、麻の繊維で編んだものが多々発見されている[13]。縄文時代前期のアンギンは、網目が粗く、衣服に適したものではなかったが、縄文時代の末期の遺跡から発見されたアンギンのなかには人骨とともに発見され、衣服として使われたものと考えられるものもある[12]

20世紀半ば、アンギンは越後の民俗学者・小林存の仮説によって、織り布が誕生する以前の技術と定義されたことが、当時から服飾発達史研究において不適切と指摘されながら、論証されないまま学際的に流用され、1970年代後半の日本における博物館建設ブームのなかで、アンギンを「縄文の布」とする論理的飛躍が見られるようになり、現在に到る[3]。しかし、縄文時代すでに織り目の布の圧痕のある土器も出土していることから、現在の研究では縄文時代すでに編み布だけでなく織り布も誕生していたと考えられている[9]。編布に用いられたとみられる編み具を使って平織りの布を作ることも可能であり、編み目と織り目が連続する布の圧痕のある土器も出土している[9]

古代

最古のアンギンが出土した福井県の鳥浜貝塚(復元)

考古資料における編み物の圧痕、いわゆる土器などに残された「網代圧痕」の発見は、1879年明治12年)にエドワード・S・モースによる大森貝塚での発掘が初出である[14]。詳細な分析は見送られたが、なんらか敷物の痕跡であることは指摘された。網代圧痕の研究は1893年(明治26年)に坪井正五郎が発表した考察が日本初とみられ、坪井はその編み方によって縄文期の編み布を7種に大別した[14]。坪井の考案した分類法は、網代圧痕分類の基礎として現代まで広く採用され、編み物全般を扱った論考の中でも必ず用いられる基軸となった[14]

土器に残る圧痕例は九州地方(佐賀県長崎県熊本県宮崎県鹿児島県)に集中して出土し、「蓆目圧痕」、または「蓆目押圧文」と呼ばれている。

土器ではなく、土面に付着したものでは、北海道恵庭市のカリンバ3遺跡(縄文後期)の墓穴118号土坑の底から確認されており、埋葬者の服であった可能性が指摘される[15]

縄文時代晩期の遺跡からもっとも多く出土しているが、弥生時代に入ると出土量が減少し、織物に押されていったん衰退したと考えられるが、中世になると「馬衣」として絵巻『一遍聖絵(一遍上人絵伝)』[16][17]などに編み布が登場する[18]

中世・近世

一遍聖絵の一場面

新潟県で発見されたアンギンの呼称のひとつに「マギン」があるが、これは「馬衣」の意で、馬の鞍下から尻にかける布として用いたことから、「マギン」と称した[19]

馬衣は中世の様々な文献に散見され、1296年永仁4年)の一向宗の様子を記録した『天狗草紙』には「袈裟をバ、出家法衣なりとて、これを着せずして、悉くに姿は僧形なり。これを捨つべき。或は馬衣をきて衣の裳をつけず。」と、馬衣(マギン)が一揆衆の装束となっていたことがわかる[19]。『一遍聖絵』を研究した武田佐知子は、遊行上人知蓮(1459年-1531年)が記したとされる『真宗要法記』の記述から、「一遍が修行中に、信州佐久郡伴野の館に宿泊したとき、夜中に寒さのあまり傍らにかけてあった馬衣をとって衣の上からかぶった。翌朝もとの位置に掛けておいたところ、馬衣の編み目毎に光を発した。館の主人は、おおいに驚いてこれを敬い、馬衣を縫い綴って(阿弥衣に仕立てて)一遍に与えた。以来馬衣が時衆の法衣となった」と解説している[19]

1295年(永仁3年)の「男衾三郎絵詞」には、「馬の麻布」と称されたアンギンを身に付けた女児が描かれている[20]

近世では、上杉謙信も陣中で下にアンギンを着ていたと伝えられる[21]

近代

江戸から明治期にかけて作られたとみられるアンギンの袋製品のなかには、で染色されていたものもある[22]。また、明治期には紙糸を経糸と緯糸双方に用いたアンギン袋もあった[22]

アンギン技法と製品が実用品として明治時代まで作られ、使われたことが確実視されているのは信濃川流域の新潟県妻有(つまり)地方、21世紀現在の中魚沼郡津南町十日町市である。1953年昭和28年)に民家から発見された現物の研究や、生活用品としてのアンギン製作の経験者である松沢伝二郎からの聞き取りなどから、岩田重信によってアンギンの製法の研究や復元が取り組まれた[23]。信濃川流域で発見された編布製品は、「アンギン」「マギン」「バト」など呼称は様々であったが、いずれも縄文時代の史料と同じ編み方であることが確認された[19]

国の重要有形民俗文化財「秋山郷及び周辺地域の山村生産用具」[24]に指定された現存する編布は、津南町歴史民俗博物館に展示されている[25]。復元された縄文衣服は十日町市博物館でみられ、無しの上衣で「越後アンギン」と称される[26]

技法

アンギンの編具
樹皮を叩いて柔らかくするための槌(左)と、編具の錘(右)

遺跡から発見された網代圧痕を研究した坪井正五郎は、その編み方を「簡単」「平等筋違縞」「変り縞」「雑り縞」「小紋編み出し」「模様編み出し」「三方編み」の7種に大別した[14]。このうち「平等筋違縞」「変り縞」については緯糸の「超え」「潜り」「送り」によりさらに細分化される[14]。こうした土器の網代圧痕の分析から、縄文時代にもっとも広域に普及していたとみられる編み方は、「2本超・2本潜り・1本送り」の編み技法であった[14]。この「2本超・2本潜り・1本送り」の編み技法は坪井の分類では「筋違縞編み」に含まれ、「綾編み」と称される編み技法である[27]。縄文時代から奈良時代にいたるまでの圧痕資料及び実物資料で、1本超・1本潜り・1本送りの平編み(坪井の分類では「簡単網代編み」と称する)よりも多用された[27]。綾編みは材料の屈折が小さく、柔軟性に欠ける素材でも並行する各条を密接させられる利点があるためと思われる[27]

現代、アンギンの編み方とされている技法は、経糸2本を交差させてその間に緯糸を挟み込んで編む絡み編み(もじり編み[28])であり、の子やに用いられる編み技法と同じものである[5][12]。横糸に対し、編んでいく縦糸が2本単位で、これが横糸をもじるようにして編むため、「もじり編み」とも呼ばれる。 この技法の出土例では、北海道東部斜里町の朱円遺跡(縄文後期)出土のものは、右撚りにつむいだ糸を2本右撚りに合わせ、経糸間隔4 - 6ミリ、緯糸は1センチメートル間に12本となっており、宮城県山王遺跡(縄文晩期)出土のものも、右撚りにつむいだ糸を2本右撚りに合わせたものだが、経糸間隔は8ミリで、緯糸は1センチ内に8本のものの他、経糸間隔10ミリ、緯糸は1センチ内に6 - 7本のものがある[29]。また、三内丸山遺跡から出土した約5500年前(縄文前期中葉)のアンギンは1列の経糸に5本の緯糸を絡ませたものだった[10]

馬衣や、もともとは馬に掛ける衣から作られたという伝承が残る広島県尾道の西郷寺に伝わる袖付きの阿弥衣(1522年)に用いられたアンギンは、越後アンギンなどと比べて緯糸の間隔が広くとることで柔軟性をもたせた構造となっており、素材のみならず、編み方も用途に応じて工夫されていたことがうかがえる[20]。なお、元は馬の衣から作られたとされる阿弥衣は、神奈川県の清浄光寺にも伝えられている[20]


  1. ^ 尾関清子 1996, p. 13.
  2. ^ a b c 『日本遺産1』ポプラ社、2019年、151頁。
  3. ^ a b 『すてきな布 アンギン研究100年 展示解説図録-総合研究「アンギンの復元的研究」の成果-』新潟県立歴史博物館、2017年、3頁。
  4. ^ 「なんだ,コレは!」 信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化”. 日本遺産ポータルサイト. 2021年6月25日閲覧。
  5. ^ a b 尾関清子 1996, p. 37.
  6. ^ a b c d e 『すてきな布 アンギン研究100年 展示解説図録-総合研究「アンギンの復元的研究」の成果-』新潟県立歴史博物館、2017年、1頁。
  7. ^ a b 『すてきな布 アンギン研究100年 展示解説図録-総合研究「アンギンの復元的研究」の成果-』新潟県立歴史博物館、2017年、3頁。
  8. ^ 尾関清子 1996, pp. 34-35.
  9. ^ a b c d 吉田真一郎『「日本の自然布」別冊太陽』平凡社、2004年、129頁。
  10. ^ a b “縄文の織物 三内丸山遺跡出土”. 読売新聞. (1996年12月18日) 
  11. ^ L・ローランド・ワーン『ビジュアル博物館 服飾』同朋舎、1999年、6-7頁。
  12. ^ a b c 『衣食住に見る日本の歴史1縄文時代』あすなろ書房、1989年、46頁。
  13. ^ a b 『丹後王国物語』丹後建国1300年記念事業実行委員会、2013年、72頁。
  14. ^ a b c d e f 松永篤知『金沢大学考古学研究紀要27「東アジア先史土器の「敷物圧痕」分類について」』(PDF)金沢大学文学部考古学講座、2004年、99頁。2021年6月25日閲覧。
  15. ^ 河合敦 『最新日本史がわかる本』 三笠書房 2001年 ISBN 4-8379-7200-4 p.41.
  16. ^ 尾関清子 1996.
  17. ^ 渡辺誠 1983.
  18. ^ 尾関清子 1996, p. 188.
  19. ^ a b c d 吉田真一郎『「日本の自然布」別冊太陽』平凡社、2004年、130頁。
  20. ^ a b c d 吉田真一郎『「日本の自然布」別冊太陽』平凡社、2004年、131頁。
  21. ^ 尾関清子 1996, p. 194.
  22. ^ a b 『「日本の自然布」別冊太陽』平凡社、2004年、128頁。
  23. ^ 岩田重信「縄文の布 柔らかさ復元◇新潟県妻有地域の布製品・越後アンギン 製法を探求◇」『日本経済新聞』朝刊2018年9月12日(文化面)2018年9月21日閲覧。
  24. ^ 文化遺産オンライン
  25. ^ 渡辺誠 1983, p. 121.
  26. ^ 尾関清子 1996, p. 15.
  27. ^ a b c 松永篤知『金沢大学考古学研究紀要27「東アジア先史土器の「敷物圧痕」分類について」』(PDF)金沢大学文学部考古学講座、2004年、100頁。2021年6月25日閲覧。
  28. ^ 渡辺誠 1983, p. 120.
  29. ^ 潮見浩 『図解 技術の考古学』 有斐閣選書 初版第5刷1991年(第1刷1988年) ISBN 4-641-18085-7 p.117.
  30. ^ a b c 増田美子『日本の服装の歴史①原始時代~平安時代』ゆまに書房、2018年、10頁。
  31. ^ 八幡一郎(編) 1959, p. 89.
  32. ^ 大塚初重 戸沢充則 佐原真編 『日本航行学を学ぶ(2) 原始・古代の生産と生活』 有斐閣選書 1979年 pp.213 – 214
  33. ^ 増田美子『日本の服装の歴史①原始時代~平安時代』ゆまに書房、2018年、11頁。
  34. ^ a b アサヒグラフ(編) 1991, p. 34.
  35. ^ アサヒグラフ(編)『古代史発掘’88-’90 新遺跡カタログ VOL.3』朝日新聞社、1991年、37頁。ISBN 4-02-256307-9
  36. ^ 河合敦 『最新日本史がわかる本』 2001年 pp.40 - 41.
  37. ^ a b 『すてきな布 アンギン研究100年 展示解説図録-総合研究「アンギンの復元的研究」の成果-』新潟県立歴史博物館、2017年、4頁。
  38. ^ 『すてきな布 アンギン研究100年 展示解説図録-総合研究「アンギンの復元的研究」の成果-』新潟県立歴史博物館、2017年、6頁。
  39. ^ 『すてきな布 アンギン研究100年 展示解説図録-総合研究「アンギンの復元的研究」の成果-』新潟県立歴史博物館、2017年、8頁。
  40. ^ a b 『すてきな布 アンギン研究100年 展示解説図録-総合研究「アンギンの復元的研究」の成果-』新潟県立歴史博物館、2017年、7頁。
  41. ^ 『すてきな布 アンギン研究100年 展示解説図録-総合研究「アンギンの復元的研究」の成果-』新潟県立歴史博物館、2017年、9頁。
  42. ^ 農と縄文の体験実習館「なじょもん」”. 津南町. 2021年6月29日閲覧。


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