紀伊国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/27 05:12 UTC 版)
紀伊国 | |
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■-紀伊国 ■-南海道 | |
別称 |
紀州(きしゅう) きのくに |
所属 | 南海道 |
相当領域 | 和歌山県、三重県南部 |
諸元 | |
国力 | 上国 |
距離 | 近国 |
郡・郷数 | 7郡55郷 |
国内主要施設 | |
紀伊国府 | 和歌山県和歌山市 |
紀伊国分寺 | 和歌山県紀の川市(紀伊国分寺跡) |
紀伊国分尼寺 | (推定)和歌山県岩出市 |
一宮 |
日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市) 丹生都比売神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町) 伊太祁󠄀曽神社(和歌山県和歌山市) |
「紀伊」の名称と由来
7世紀に成立した当初は、木国(現代の標準語・共通語表記:きのくに)であった。名称の由来として、雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された、という説がある。また、今の和歌山県北部が、有力豪族である紀国造が支配していた地域であるから「紀の国」というようになった、という説もある。実際に、律令制以前の紀伊国は紀国造の領土のみであり、熊野国造の領土(牟婁郡)を含まなかった。
和銅6年(713年)に「雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すように」との勅令が出された際、紀伊国と表記するようになった。現代の近畿方言では「木」(きぃ)・「目」(めぇ)・「手」(てぇ)など1拍語を2音拍で発音する特徴があるが、もともと当地(または都である奈良)の発音で「木国」=「きぃ-の-くに」だった読み方「きぃ」部分へ雅字を当て字し「紀伊国」とした、とする説がある[1]。その一方で、雅字制定当初は「紀伊国」=「き-の-くに」つまり「紀伊=き」(「伊」は黙字)と読まれていたものが、のち「伊」部分に「い」の音を充てた結果「紀伊」=「きい」という読み方が後代に成立したとする説もある[注釈 1]。ただし、いずれにおいても奈良時代の日本語の発音は不明の点も多く、はっきりしない。
領域
明治維新直前の領域は、現在の和歌山県に下記を加えた区域に相当する。
沿革
7世紀に成立した。
紀伊国は歴史が古く、『古事記』には神武天皇が大和に入る時に紀伊熊野を通ったとされるなど、事実はともかく、奈良盆地を地盤とするヤマト王権から知られた国であった。王権は、海人集団を部民に編成する海部の設定を進めた。また、忌部の設定は「紀氏集団」の在地の祭祀権を揺るがした。しかし、部民の設定は充分に展開しなかった。王権はつぎに国造制の導入と屯倉の設定という方策をとった。
天皇や皇后の紀伊行幸で史料に現れた確実な例は、斉明天皇の658年(斉明4年)紀温湯(牟呂温湯)行幸である。 この11月に有馬皇子の事件が起きた[注釈 2]。
奈良時代の官衙遺跡の確実な例として、御坊市の堅田遺跡が挙げられる。この遺跡では、周りに柵か塀をめぐらしており、その内区には庇のついた掘立柱建物を中心に建物が全体として「コ」の字状に建てられており、外区には倉庫群が二組建てられていたようである。この堅田遺跡は8世紀前半から後半にかけての遺跡で、付近に「西郡」の名の字が残っているところから考えて、日高郡衙跡に比定されている。
平安時代後期に熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の連合体)が成立し、太上天皇(上皇)による熊野御幸がおこなわれるようになると、熊野古道が整備され熊野詣が流行った。その他、紀州の三井寺とされた紀三井寺、空海の高野山金剛峯寺、道成寺、根来寺など大寺大社が紀州の地に建てられた。
平安時代末期には、特に有田郡の湯浅地方を中心に湯浅党の武士団、口熊野の田辺・奥熊野の新宮付近に熊野別当家を総帥とする熊野水軍が発達し勢力を伸ばした。この湯浅党の武士団は平氏方、熊野水軍は源氏方として源平合戦(治承・寿永の乱)にも関与した。
南北朝時代は湯浅党を中心に南朝勢力が強い国の一つだった。
南北朝合一後は畠山氏が守護であったが、寺社勢力が強力なために、その支配力は限定的なものにとどまった。
戦国時代には、ルイス・フロイスが「紀州の地には四つ五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者もそれを滅ぼすことができなかった[2]」と述べている通り、雑賀衆に代表される国人衆や寺社勢力が割拠する状態が続いた。紀伊の割拠状態は1585年(天正13)の羽柴秀吉による紀州征伐によって終焉した。紀伊の最有力勢力である雑賀衆と根来寺は、小牧・長久手の戦いの際、秀吉の留守に乗じ岸和田城や大坂に侵攻していたが撃退され、秀吉の信雄・家康らとの和睦後、雑賀攻めを招いた。秀吉方は3月20日に出兵し、和泉の諸城を落として紀州に攻め入り、23日に根来寺を焼き討ちした。紀州の国人や各地の戦闘で敗れた残党なども加わって小さな太田城で抵抗したが、秀吉は水攻めで約一ヶ月後に降伏させた。平定後は刀狩りを命じ、跡を秀長に任せ、和歌山城を築造した。
現在の奈良県上北山村と下北山村は、元は牟婁郡の一部であったが、後に大和国吉野郡に編入された。[3]
現在の三重県の尾鷲市、紀北町、大紀町南部の錦地区は、元は志摩国英虞郡の一部であったが、天正10年(1582年)に新宮城主の堀内氏善により紀伊国牟婁郡に編入された。
関ヶ原の戦いの後は浅野幸長が入封した(紀州藩)。1619年に浅野氏が安芸広島へ転封されると、徳川家康の十男徳川頼宣が和歌山に入封し、幕末まで紀州徳川家が統治した。
近世以降の沿革
- 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(1,374村・444,148石余)。太字は当該郡内に本拠が所在。新宮領は和歌山藩附家老水野氏、田辺領は和歌山藩附家老安藤氏が領有[注釈 3]。
- 慶応4年1月24日(1868年2月17日) - 新宮領・田辺領が立藩して新宮藩・田辺藩となる。
- 明治2年(1869年)8月 - 高野山領が堺県の管轄となる。
- 明治3年4月27日(1870年5月27日) - 堺県の管轄地域が五條県の管轄となる。
- 明治4年
- 明治9年(1876年)4月18日 - 第2次府県統合により、度会県牟婁郡が三重県の管轄となる。
国内の施設
国府
国府は名草郡に存在した。『和名抄』や『大御記』の記載からは10世紀以降には和歌山市府中(府守神社付近、北緯34度16分4.75秒 東経135度14分1.30秒 / 北緯34.2679861度 東経135.2336944度)に所在したと推定され、それ以前については和歌山市府中とする説のほか岡田遺跡(岩出市)とする説が挙げられている。2019年度(令和元年度)の府中遺跡(和歌山市府中)における発掘調査では奈良時代の推定国府関連遺構として大型建物・塀が認められており、10世紀以前にも和歌山市府中に国府が存在した可能性が示唆されている[4]。
国分寺・国分尼寺
- 紀伊国分寺跡 (紀の川市打田町、北緯34度16分7.60秒 東経135度20分21.00秒 / 北緯34.2687778度 東経135.3391667度)
- 国の史跡。跡地上の八光山醫王院国分寺が法燈を伝承する。
- 紀伊国分尼寺跡
- 不詳。西国分廃寺跡(岩出市西国分、北緯34度15分57.14秒 東経135度19分53.66秒 / 北緯34.2658722度 東経135.3315722度、国の史跡)を国分尼寺跡とする説がある。
神社
- 伊都郡 丹生都比女神社
- 名草郡 日前神社
- 名草郡 国懸神社
- 比定社:日前神宮・國懸神宮 (和歌山市秋月)
- 名草郡 伊太祁󠄀曽神社
- 名草郡 大屋都比売神社
- 名草郡 都麻都比売神社
- 比定論社:都麻津姫神社 (和歌山市吉礼、北緯34度12分18.49秒 東経135度14分6.79秒 / 北緯34.2051361度 東経135.2352194度)
- 比定論社:都麻都姫神社 (和歌山市平尾、北緯34度12分30.30秒 東経135度14分49.90秒 / 北緯34.2084167度 東経135.2471944度)
- 比定論社:高積神社 (和歌山市禰宜、北緯34度14分2.19秒 東経135度15分17.06秒 / 北緯34.2339417度 東経135.2547389度)
- 名草郡 鳴神社
- 名草郡 伊達神社
- 名草郡 志磨神社
- 名草郡 静火神社
- 比定社:静火神社 (和歌山市和田、北緯34度12分10.63秒 東経135度12分28.80秒 / 北緯34.2029528度 東経135.2080000度) - 竈山神社境外摂社。
- 在田郡 須佐神社
- 牟婁郡 熊野早玉神社 - 名神大社ではない。
- 牟婁郡 熊野坐神社
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[5]。
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