東ローマ帝国 政治

東ローマ帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/24 19:24 UTC 版)

政治

東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲
画像はコンスタンティノポリス総主教庁の正門に今も掲げられているもの

イデオロギー

6世紀になると330年5月11日が特別な記念日とされ[59]、「ローマを嫌ったコンスタンティヌスがローマの支配から独立した新しい帝国を創った」とする建国神話が創造された。9世紀になるとそれまで勅令等で使われていなかった「ローマ皇帝」といった称号が法令等の文書でも年代記等の編纂文献でも頻繁に用いるようになった[注 30][6]。自らがローマ帝国であることを示すために形式的にではあるが古代ローマ時代の伝統の復興も試みられ、例えば9世紀末までには「市民」を意味するデーモスという名の官職が創り出され[注 31]、「市民」という官職名の「役人」による「市民による歓呼」の模倣という奇妙な儀式が行われるようになった[61][60][62][注 32]。10世紀には皇帝コンスタンティノス7世の下で『儀式の書』が記され、ビザンツ帝国の宮廷儀式が整備された[64]。他にも帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わったことを「父祖の言葉を棄てた」と批判した『テマについて』や、「皇帝の権力は民衆・元老院・軍隊の三つの要素に拠る」と記したミカエル・プセルロスの『年代記』など、古代ローマとの連続性をほのめかす著作の多くが10世紀から12世紀の間に作成された。ところが13世紀になると今度は自分たちの起源を古代ギリシアに求めるようになり[12][65]、住民の自称も「ローマ人」から「イリネス(ギリシア人)」へと変化していった[12]。このように、この帝国では全てが流動的であった[66]。こうした変化に対応する柔軟性を持っていたことが、帝国が千年もの長きにわたって存続出来た理由の一つではないかと考える研究者もいる[誰?]

ローマ帝国の継承者として

西方領土と東方領土とでは「ローマ帝国」に対する認識は微妙に異なるものであった。政治的・法的・文化的それぞれの側面で異なっていた[67]。法的にはローマ法を受け継ぎ、「コンスタンティノープルの皇帝は、ローマ皇帝の唯一の法的に正統な継承者であると自任し」[68]、「『ローマ法大全』は、九世紀にはギリシア語版『バシリカ法典』として再編されて、ずっと国家の基本法であり続け」[69]、「哲学・歴史学・文学の重要な作品はビザンツ帝国において書き継がれ」[70]、「自分たちはギリシア古典、ローマ法の世界に生きているとビザンツ人は考えていた」[71][72]。一方、政治体制についての認識はこれとは大分異なっていた。西ヨーロッパではローマ帝国はロームルスのローマ建設神話から王政共和政と変化してきたローマ共同体の政治史の一部だったが、一方の東ローマ帝国においてはカエサル以前のローマ共同体を自分たちの歴史の一部であるとする意識は薄かった[73][注 33]。東ローマ帝国におけるローマ帝国とは旧約聖書の『ダニエル書』に見られる帝国交替史に基づいたもので[73]、それはバビロニア帝国ペルシア帝国アレクサンドロス帝国から受け継いだ[73]「文明世界を支配する帝国」「キリストによる最後の審判まで続く地上最後の帝国」としての存在だった。ビザンツ人にとってみれば、カエサル以前のローマ帝国よりはペルシア帝国の方が自分たちとつながりのある世界だったのである[75]。自らをキリスト教的意味での「世界史」に位置づける強い意識は、世界創造紀元の使用にも現れている。

ビザンツ皇帝理念

ビザンツ皇帝はローマ皇帝に起源を持ちつつもローマ皇帝とは異なる存在(専制君主)である[76]。「すべての人間は皇帝の奴隷である」という言葉に象徴されるように、ビザンツ皇帝は絶対的な主権者だった[77][78]。ビザンツ帝国では、市民は国家に奉仕するのではなく、皇帝に奉仕するものとなった[77]。古代ローマでは市民の果たす役割は財産に応じた階級に託されていた(エヴェルジェティスムや公職者就任の財産制限)が、今や役割がそれを果たす人の階級を決めることになった。それは古代ローマとは反対の制度だった[77]

ビザンツ皇帝理念が形成されたのは主に5世紀半ばから7世紀初頭にかけてである。「「軍人皇帝時代」もちろん、330年のコンスタンティノープル遷都以降も、皇帝歓呼の中心は軍隊で」「皇帝歓呼は軍隊の駐屯地で行われることが多く、コンスタンティノープル西方のヘブドモン軍事基地などが、即位式の主要な舞台であった」が、「五世紀の後半になると、元老院・民衆の歓呼が重要性を増し、即位式の舞台もコンスタンティノープル競馬場に移った」[79]。一方同じ5世紀の半ばにコンスタンティノープル総主教による戴冠の儀式が行われるようになり、「徐々にローマ時代から伝わる戴冠の方法を完全に押しのけ、中世では、これが最終的に戴冠式の本質的部分となった」[80][81]。就任に際してコンスタンティノープル総主教によって戴冠された最初の皇帝は5世紀のレオ1世であると考えられている[82][83][84][注 34]。そこにはローマから正当なローマ皇帝として承認されなかったレオ1世の即位を神の意志による選択として正当化しようとする思惑があったと考えられるが、その結果として皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった[82][83][注 35]。7世紀になると皇帝歓呼の場所は競馬場から宮殿・聖ソフィア教会へ移るが、並行して皇帝自らが後継者を共同皇帝として戴冠するようになった。[注 36] 6世紀のユスティニアヌス1世は専制君主制へと大きな一歩を踏み出した。ユスティニアヌス1世は元老院とローマ市民から諸権限を回収する勅令を出し[86]、「自らの地位を諸法に超越するものとし」[注 37]、「その結果、皇帝は、諸法を超越しながらも、自発的に諸法に従うことになった」。[86]。ユスティニアヌス1世は自らを「主人」と呼ばせ、元老院議員へも跪拝(プロスキュネーシス英語版)を要求した[注 38]。かつては市民によって信任された公職者であった皇帝が3万人の市民を虐殺したニカの乱の惨たらしい結末がユスティニアヌス1世という皇帝を象徴している[88]。ユスティニアヌス1世によって古代の民主政治の伝統は最終的に否定され、ビザンティン専制国家への道が開かれた[89]。古代民主政治の中から産まれたローマ皇帝権力は、その母斑をついに消し去ったのである[88]。血塗られた彼の帝衣は、まさに古代ローマ皇帝の死装束であった[89]

7世紀には、もう一つ皇帝像の変化があった。「戦う皇帝」から「平和の皇帝」への転換である。古代ローマや中世西欧では、ローマ皇帝は武装した軍人として描かれ、軍司令官としての性質が強調された。一方の東ローマ帝国では、7世紀の皇帝ヘラクレイオスを最後に古代ローマ式の征服称号が用いられなくなった[90]。ヘラクレイオスは皇帝称号に「平和者」という語を含めたが、このキーワードが9世紀までにはビザンツ皇帝称号の重要な部分となり、皇帝とは平和を好む敬虔な人物であるべきという考えが定着することになる[91]

政治体制

東ローマ帝国は、古代ローマ帝国の帝政後期以降の皇帝(ドミヌス)による専制君主制(ドミナートゥス)を受け継いだ[注 39] 7世紀以降の皇帝(バシレウス/ヴァシレフス)は「神の恩寵によって」帝位に就いた「地上における神の代理人」「諸王の王」とされ[92]、政治・軍事・宗教などに対して強大な権限を持ち、完成された官僚制度によって統治が行われていた。課税のための台帳が作られるなど、首都コンスタンティノポリスに帝国全土から税が集まってくる仕組みも整えられていた。

しかし、皇帝の地位自体は不安定[注 40]で、たびたびクーデターが起きた。それは時として国政の混乱を招いたが、一方ではそれが農民出身の皇帝が出現するような[注 41]、活力ある社会を産むことになった。このような社会の流動性は、11世紀以降の大貴族の力の強まりとともに低くなっていき、アレクシオス1世コムネノス以降は皇帝は大貴族連合の長という立場となったため、皇帝の権限も相対的に低下していった。

このほか、東ローマ帝国の大きな特徴としては、宦官の役割が非常に大きく、コンスタンティノポリス総主教などの高位聖職者や高級官僚として活躍した者が多かったことが挙げられる。また、9世紀末のコンスタンティノポリス総主教で当時の大知識人でもあったフォティオスのように高級官僚が直接総主教へ任命されることがあるなど、知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である。

行政制度

属州制からテマ制へ

地方では、初期は古代ローマ後期の属州制のもと、行政権と軍事権が分けられた体制が取られていたが、中期になるとイスラムやブルガリアの攻撃に対して迅速に防衛体制を整えるために地方軍の長官がその地域の行政権を握るテマ制(軍管区制)と呼ばれる体制になった。

テマ制は、自弁で武装を用意できるストラティオティスと呼ばれる自由農民を兵士としてテマ単位で管理し、国土防衛の任務に当たらせる兵農一致の体制でもあり、国土防衛に士気の高い兵力をすばやく動員することができた。ストラティオティスはその土地に土着の自由農民だけでなく、定着したスラヴ人なども積極的に編成された。ストラティオティスは屯田兵でもあり、バルカン半島などへの大規模な植民もおこなわれている。彼らの農地は法律で他者への譲渡が禁じられ、テマ単位で辺境地域への大規模な屯田がおこなわれるなど、初期には帝国によって厳格に統制されていたと思われる。

テマ制度を可能ならしめた要因として、6世紀末から8世紀の時期に従来のコローヌスに基づく大土地所有制度が徐々に解体されたことが挙げられる。この時代は帝国の混乱期で、スラヴ人ペルシア人の侵攻によって農村の大土地所有や都市に打撃を与え、帝国を中小農民による村落共同体を中心とした農村社会に変貌させた。このような村落共同体の形態としてはスラヴ的な農村共同体ミールとの類似性を指摘する説があるが、現在では東ローマ独自のものであるという見方が強い。

テマ制の崩壊

8世紀後半以降、外敵の大規模な侵入が減り、次第に商業が活性化していくと、それにつれてテマ農民兵士の貧富の格差が増大し、中小自由農民層の没落・貧困化が進行した。安定期となったマケドニア朝の時代に大土地所有の傾向がはっきりと現れるようになり、10世紀にはケサリアのフォカス家など世襲的な大土地所有者が確認できる。

ストラティオティス層は法律により土地の譲渡が禁じられていたため、まだ影響は少なかったが、レオーン6世の態度が大土地所有の傾向を確実なものとした。晩年の「新勅法」によって、それまで土地を売った者の近隣者が6ヶ月以内に売った価格の同額を支払えば買い戻せるとした先買権を無効とした。ロマノス1世レカペノスの時代になるとこのような大土地所有はすでに帝国に弊害をもたらしており、彼は一連の立法でこれを防ごうとした。すなわち近隣者の先買権を復活させ、さらに農村共同体に優先的に土地の譲渡をうける権利を定めた。また、不当な価格で取り引きされた土地については無償で返還されるものとされ、正当な取引であっても3年以内に売却価格の同額を支払えば土地を取り戻せるとした。しかしこれらの法律は守られなかった。なぜなら不当な購入をしていたのは地方のテマ長官や有力役人、その親族たちであったからだ。彼らによってロマノス1世の努力は骨抜きにされたのである。

同時期に帝国をおそった飢饉もこの傾向を助長した。マケドニア朝末期のバシレイオス2世は過去の不法な土地譲渡や皇帝の直筆でない有力者への土地贈与文書を無効とし、教会財産の制限をおこなった。これはかなりの効果を上げ、彼の軍事的成功もこの政策に恩恵によるところが大きかった。

この時代にストラティオティスを基盤とした軍制は崩壊した。帝国は計画的に軍事力を削減し、ストラティオティス層からは軍役を免除する代わりに納税を義務づけた。これにより帝国はノルマン人などの傭兵に軍事力を大きく依存することになった。以後テマは単なる行政単位となったが帝国滅亡まで存続した。テマ長官としてのドメスティコスは文官職に変化し急速に地位が低下した。

プロノイア制

コムネノス朝の時代にはプロノイア制が実施された。かつては貴族に大土地所有や徴税権を認める代わりに軍務を提供させる制度であると考えられ、これが西欧のレーエン制に擬され、ゲオルク・オストロゴルスキーなどが主張したいわゆる「ビザンツ封建制」の要素と考えられていたが、今日ではこの説は基本的に否定されている。プロノイアは国家に功績のあった臣下に恩賜として基本的に一代限りで授与されるものであり、またプロノイアの設定された地域をその受領者が実際に統治したかどうか明確でない。したがって荘園のように囲い込まれて不輸不入の領主権が設定されたわけではない。

ニカイア帝国ではプロノイアは限定された地域に限られていて、ヨハネス3世はプロノイアの土地は国家の管理下にあるものとして、売買を固く禁じている。ミカエル8世はプロノイアの世襲を大規模に認めているが、これは例外措置であり世襲財産と同一視することを厳しく注意している。とはいえ、これらの事実は逆にプロノイアが帝国の意図に反して売買されたり世襲されたりすることがあったという証明であるともいえる。

軍制との関連性も明確でない。軍事奉仕を暗示するようなプロノイア贈与もおこなわれなかったわけではないが一般的ではない。プロノイア自体は必ずしも土地と結びつくわけではなく、漁業権であったり貧困農民層であるパリコスの労働使役権だったりするが、パリコスは法的には完全な自由民であった。

プロノイアは女性や教会や一団の兵士などの団体に贈与されることもあった。そのためプロノイアを税収の一部を賜与したものとする見方もある。また、コムネノス朝時代のプロノイアは非常に限定的で従来のテマ制度と代替可能なほど徹底されてはいない。そのためテマ制の崩壊とプロノイア制出現の因果関係は明確ではない。

自由農民層による軍隊編成が試みられなかったわけではないが、帝国が末期まで傭兵に軍事力を頼っていることを考慮すると、プロノイア制度が国家の防衛に果たした役割はそれほど大きいものではないと判断できよう。むしろビザンツ封建制があったとしてそれを用意するものがあるとすれば、旧ラテン帝国の封建諸侯である。彼らはビザンツ貴族とは別個に服従契約を結び、それは西欧封建制に影響を受けたものであった。末期に顕著となる皇族への領土分配はデスポテースという地位と西欧封建制との関係で論じられるべきであろう。


注釈

  1. ^ a b ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名ビュザンティオンByzantion,帝国の呼称としては Byzantinisches Reich(ビュツァンティニッシェス・ライヒ) が用いられるのが一般的である。
  2. ^ なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた[要出典]
  3. ^ 現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール
  4. ^ 380年以前の皇帝府は東方では主にニコメディアアンティオキアに置かれた。
  5. ^ 550年頃に書かれたプロコピオス『秘史』の日本語訳(2015、京都大学出版会、和田廣訳)では、「ローマ帝国」という日本語用語は60回登場しているが、原典では、それぞれ「Ῥωμαίων ἀρχῆς」が28回(更に「全帝国」の訳で2回、「ローマ皇帝」の訳で1回)、「Ῥωμαίων」が16回、「Ῥωμαίοις」が9回、「Ῥωμαίους」が2回と、原典に相当する用語がないのに日本語訳で「ローマ帝国」となっている箇所5回となっている。「Ῥωμαίων ἀρχῆς」は、「ローマ帝国全土」のニュアンスが強いが、「ローマ帝国」以外の意味で用いられているのは二度だけ((23-1,p169)と18-20(p139))で、それには「ローマ皇帝」「ローマ帝国の支配者」の訳語が当てられている。「Ῥωμαίων」と「Ῥωμαίοις」「Ῥωμαίους」は、「ローマ帝国」の意味よりも、「ローマ人」の意味の方で利用されている場合が多い(p169、23-1)
  6. ^ 「我々はローマ人、この国はローマ帝国である。これがビザンツ帝国のいわば憲法であった」(井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P23))
  7. ^ もっとも初期の史料のひとつはアレクサンドリアのアタナシオスで373年の著作(杉村貞臣『ヘラクレイオス王朝時代の研究』p109)、ラテン語の最古の用例は『ローマ帝政の歴史』16巻11-7(日本語版第一巻p169註7) Romaniae であるが、転写の際に Romanae rei の表記が変わったとする研究者もいる(同書注)。なお、ロマニアは中世西欧では小アジアの旧ビザンツ領だと認識していたようで、第一回十字軍を提唱した1095年クレルモン教会会議におけるウルバヌス2世の演説では、「トルコ人やペルシア人がロマニア(Romaniae)の土地の境界にまで押し寄せた」との文言がある(Fulcheri Carnotensis著『Historia Hierosolymitana』1-3-3,p133(フーシェ・ド・シャルトル『エルサレムへの巡礼者の事績』)なお、丑田弘忍訳「エルサレムへの巡礼者の事績」(序+第一巻)では当該部分は「トルコ人とアラブ人が地中海にまで、即ちルームの境界の」(p7)と訳されている)が、その他の箇所では、「ニコメディアに至るまでルーム全土を手中に収めていた」(p15、『Historia Hierosolymitana』1-9-5,p180)、「ニケアを支配していたルーム(Romaniam)のスレイマン」(p17)(『Historia Hierosolymitana』1-11-4,p192)と登場するなど、小アジア側の旧ビザンツ領を示している。なお、丑田訳p14では「ギリシアのその他の市」とあり、バルカン半島を意味するように受け取れるが、原文(1-8-8,p174-5)ではバルカン半島の諸都市の名前が逐一挙げられていて、「ギリシア」という用語は登場していないなど注意を要する
  8. ^ 13世紀以降、東ローマ帝国の民衆は「ギリシア人」を自称するようになった[9]
  9. ^ ギリシア人という言葉はビザンツ時代は蔑視語で、異教徒や偶像崇拝者を意味したとされる[10]
  10. ^ オドアケルは東ローマ皇帝によって任命されたイタリア領主として帝国の西半分を統治するという体裁をとった。ローマ人にせよ「蛮族」と呼ばれた人々にせよ、これによって帝国がローマ人と蛮族の領域とに区別されたなどという認識は持っていなかった[11]
  11. ^ なお、当初はあくまでもそれまでの分担統治同様、一つの帝国を二人で分担統治する体制と捉えられていた。例えば、443年に地震で破損したローマ市のコロッセオの修復が行われているが、その際にコロッセオに設置されたラテン語碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス(テオドシウス2世)とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス(ウァレンティニアヌス3世)のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている[14]
  12. ^ 「東のローマ帝国」ではなく「ローマ帝国の東の部分」という意味である。
  13. ^ 井上浩一は「ユスティニアノス一世は皇帝Imperator,Augstusとだけ名乗った。7世紀ヘラクレイオス(在位610年641年)や8世紀レオーン3世(在位717年 - 741年)も同様である。彼らはわざわざ「ローマ皇帝」と名乗っていないし、名乗る必要もなかったのである」(井上2009p20)と記載している。これはユスティニアヌス以前も同様で、例えば当時の皇帝からペルシア王への書簡がアンミアヌス・マルケリヌス『ローマ帝政の歴史Ⅰ』p216に引用されているが、皇帝は「陸海の勝者コンスタンティウス、永劫のアウグストゥス」と名乗っているだけで、「ローマ皇帝」とは名乗っていない。550年頃著されたプロコピオス『秘史』(以下、引用箇所は京都大学学術出版会和田廣訳)でも、無数に登場する「皇帝」は、わずかな例外以外「皇帝αὐτοκράτωρ/βασιλεὺς」単独で用いられている。「ローマ皇帝」そのものは、四つの用語で登場している。即ち、Ῥωμαίων ἄρχοντος,(ローマ人のアルコン、13-23(p107))、Ἰουστινιανὸς Ῥωμαίων αὐτοκράτωρ(ローマ皇帝ユスティニアヌス、26-30(p198))、Ῥωμαίων ἀρχὴν(23-1,p169)、Ῥωμαίων αὐτοκράτορες(30-2,p218)である(Ῥωμαίων ἀρχὴνは18-20(p139)では「ローマ帝国の支配者」と訳されていて、事実上「ローマ皇帝」を意味する箇所となっている。これを加えれば五か所)。Ῥωμαίων ἀρχὴνはこの箇所以外は総て「ローマ帝国」を表す用語として用いられている。なお、『秘史』(2015)では Ῥωμαίοις6-11(p51)や、βασιλέα24-27(p182)とだけあるところを、日本語訳では「ローマ皇帝」と訳しているので注意が必要である(Ῥωμαίοις は通常は「ローマ人」を意味する用語)。このように、『秘史』に登場する「ローマ皇帝」という用語は登場回数も少ない上に表記にゆれがあり、称号として定着していた用語とは言い難いが、これはタキトゥスからアンミアヌス・マルケリヌスに至るまでの古代ローマの文学作品と共通している。なお、ディオクレティアヌスについても、26-41(p202)でΔιοκλητιανὸς Ῥωμαίων と登場しており、直訳すれば「ローマ人のディオクレティアヌス」となってしまうが、ここでのῬωμαίωνは「ローマ皇帝」の意味で用いられている。『秘史』では都市ローマは4回言及されているが、いずれも、Ῥώμηςとなっていて、「ローマ帝国」とは異なった用語となっている)。Ῥωμαίων ἄρχοντοςは、principem Romanumの訳語である可能性がある(ケンタッキオー大学作成の文書ALL THAT GLITTERS IS NOT GOLD: THEORIES OF NOBLESSE OBLIGEIN CAROLINGIAN FRANCIA のp32に、"Society of Biblical Literature Greek New Testament"というギリシア語聖書におけるἄρχωνがヒエロニムスのウルガタ聖書のprincepsに対応しているとの記載がある。これが正しいとすれば、Ῥωμαίων ἄρχοντοςは「ローマの元首」ということになる。
  14. ^ 「212年のカラカラ帝の立法<<Constitutio Antoniniana>>をもって、<<deditici>>を除くローマ帝国の全住人にローマ市民権が与えられて以来、「ローマ人」概念はもはや都市ローマとの結びつきを失って、ローマ帝国に居住するすべての市民を意味する言葉に変じていたのである」(渡辺金一著『ビザンツ経済社会史研究』p83、「三世紀以降「ローマ人」は、単なる都市の名称とは関係なく、「ローマ帝国の臣民」の意味で理解されることになった。なればこそローマ帝国の首府がローマ市を離れ、ニコメディアを経てコンスタンティノポリスへ移った後にも、「ローマ人」の名辞は帝国臣民の意味を保ちつつ、全帝国の自由民を対象に適用された」(杉村1981, p. 139-140)。(杉村1981, pp. 138–146, 第三章二節第一項の「「ローマ人」の概念」)は、後期ローマ帝国期における「ローマ人」概念を論じている。なお、東西分裂期の用語法については、(杉村1981, pp. 145–46, 註25)で解説されている。以下註25の全文「なお国民として「ローマ人」を論ずる際に、三九五年におけるローマ帝国東西二分問題にも注意しなければならない。三九五年以後、ローマを中心とする帝国の「西の部分 pars occidentalis」の住民は「西ローマ人οι έσπέριοι Ρωμαίοι」と呼ばれたのに対し、帝国の「東の部分 pars orientalis」の住民は「東ローマ人οι έώοι Ρωμαίοι」と呼ばれた。この限りでは一応「西ローマ」と「東ローマ」という概念は用いられたが、「ローマ人の皇帝」はコンスタンティノポリスに君臨した皇帝を指し、ローマで君臨した皇帝に対しては「ローマにおける皇帝ό βασιλευς έν Ρώμη」と呼ばれた。この二種類の帝位号は四七六年まで適用されたに過ぎず、ローマ帝国がその領域を西の部分で失った後は、もはや「ローマ人」を東西に分けて考える必要がなくなり、その意味でかれらはふたたび「ローマ人」の名で統一して呼ばれた」
  15. ^ 中世・現代ギリシア語ではビザンティオン。
  16. ^ 例えば、清水睦夫『ビザンティオンの光芒―東欧にみるその文化の遺蹤—』(晃洋書房、1992年)。
  17. ^ a b 「ビザンツ帝国とは古代のローマ帝国とはまったく異なる国家であり、その文明や社会も古代ギリシアローマ時代とは性格を替えていたとする見解も有力である。そもそも『ビザンツ』という呼び方自体、古代のギリシア・ローマとは異なる世界という考えを前提としていた」(井上2009、p.5)
  18. ^ 日本では、一部の学者で「中世ローマ帝国」という用語が利用されている。梅田良忠が1958年の『東欧史』(山川出版社)で提唱し、渡辺金一が1980年に『中世ローマ帝国』(岩波新書)を出版、大月康弘が2018年に(大月康弘 2018)を発表しているが、いずれも一般化はしていない。なお、中世ドイツ史研究者の三佐川亮宏は神聖ローマ帝国を中世ローマ帝国と書いていることがある(『ドイツ史の始まり』, p. 445 あとがき)
  19. ^ しかしたとえば、カールの伝記を記したエインハルドゥスは、東の皇帝を呼ぶのに「コンスタンティノープルの皇帝」「ローマ人の皇帝」「ギリシア人の皇帝」とまちまちであった[20]
  20. ^ 日本史でいうと古墳時代から室町時代に相当する。
  21. ^ 例えばローマ帝国、ビザンツ帝国、ラテン帝国ニカイア帝国など。
  22. ^ 「誤解を恐れずにいいかえればこうなる。アラブ人の侵入によって、東ローマ帝国は滅び、半独立政権のテマが各地に成立した。そのテマを地方行政組織に編成しなおすことによって、新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する。」(井上浩一栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』(中公文庫版 P71-72))
  23. ^ 古代ローマにおいて皇帝とは、その職務に相応しいとみなされた実力者が指名されるもので、無能とみなされた皇帝は暗殺などの手段によって帝位を剥奪されるのが伝統であったが、帝国東部においてはアルカディウスが実に20年以上にも渡り帝位を維持し、その死を待ってテオドシウス2世に帝位が継承された。一方で古代ローマの伝統を色濃く残した帝国西部においては、ホノリウスの帝位は元老院によって否定され、対立皇帝や短命皇帝が相次ぎ、5世紀末には西方正帝の地位そのものが廃止された。
  24. ^ ただし井上浩一は6世紀以前には王朝という観念は薄かったとしている[43]
  25. ^ これより正教会が誕生する。なお、最終的に東西教会の分裂が起きたのは一般に1054年が目安とされるが、分裂が確定した年代については異説も存在する(詳しくは東西教会の分裂を参照)。
  26. ^ この要請にこたえて実施された軍事行動が第1回十字軍である。
  27. ^ 小アジア西部のニカイア帝国、小アジア北東部のトレビゾンド帝国、バルカン半島南西部のエピロス専制侯国など。
  28. ^ ミカエル8世の娘(Euphrosyne)がノガイ・ハーンの妃になった。
  29. ^ もっともロシアではジョチ・ウルスのハンも東ローマ皇帝も君主号としては大雑把に「ツァーリ」と呼んでおり、古代ローマの後継者およびキリスト教世界全体を支配する普遍的な帝国としての「ローマ帝国」を、どこまで志向していたのかについては諸説あって定かではない。
  30. ^ 文学作品でも基本的には「皇帝」とのみ記載されたが、稀に「ローマ皇帝」という用語が使われていた。ローマ皇帝#ローマ皇帝に関わる称号や権限の注を参照
  31. ^ 段階的な説明としては、まず9世紀末にレオーン6世が元来の意味での市民(デーモス)を否定する勅令を出し、その直後に編纂させた官職表『クレートロロギオン英語版』でデーモスという語を官職名として再定義した[60]
  32. ^ 東ローマ帝国において、市民による歓呼は6世紀までは実際に重視されていたが7世紀以降には廃れていた[63]
  33. ^ そもそも当時のギリシア語にはローマ共同体を表すレス・プブリカ(Res publica)に相当する語すらなかったともいう[74]
  34. ^ レオ1世に先だってマルキアヌスが戴冠を行ったとする説もある[85]
  35. ^ ただし、井上浩一は論文「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」(#笠谷2005p194-5)にてレオン一世の戴冠について述べたくだりで「総主教による戴冠は、それ自体として皇帝を生み出すものとは考えられなかった。総主教は、ある場合には元老院・市民・軍隊の代表者として戴冠し、ある場合には皇帝によって指名された人物を改めて聖別したに過ぎない」としている
  36. ^ #笠谷2005p198、井上浩一「ローマ皇帝からビザンツ皇帝へ」p199にて井上浩一は、「皇帝自らが戴冠するという式次第」がマケドニア朝で発生したことについて「帝位の世襲が確立した時期」であったとコメントしている
  37. ^ ただし、こうした法令は1世紀の「ウェスパシアヌス帝の最高指揮権に関する法律」で登場しており、セウェルス朝の法学者ウルピアヌスも「皇帝の発言は法的な力を持つ」と記載(『法学提要1巻2章6節)している(ローマ皇帝#アウグストゥス以後の皇帝権の変化参照)
  38. ^ ただしユスティニアヌス1世が臣下に跪拝を求めた際には元老院議員からの強い反発があったという[87]。これが10世紀ともなると最高位の大臣ですら皇帝の奴隷であることを名誉なこととして抵抗なく跪拝を行うようになるのである[87]。ユスティニアヌス1世の時代は専制君主制へと移行する過渡期だった。
  39. ^ レミィ2010、pp.151-153の訳者あとがきによると、「ローマの帝政は、元老院というオブラートに包まれていたにせよ、その始まりから皇帝による軍事独裁だった」とされ、「著者は、ディオクレティアヌスは最後の「ローマ皇帝」だった、と述べている」とした上で、現在の歴史学では「「専制君主政」という言葉を用いる専門のローマ史研究者はほとんどいないだろう」し、「「専制君主政」という言い方は完全に廃れてしまった」と記載している。
  40. ^ 帝位継承法のようなものはなく、「元老院・市民・軍の推戴」が皇帝即位の条件だったため。
  41. ^ 6世紀のユスティニアヌス1世や9世紀のバシレイオス1世など。
  42. ^ 逆に近代のギリシアでは、その民族主義的思想から、「帝国民の大半がギリシア人であり、中世の東ローマ帝国はギリシア人国家だった」という主張がされたこともあった。メガリ・イデアも参照のこと。
  43. ^ ただし中世のバグラトゥニ朝アルメニア王国自体は、東ローマ帝国と敵対していたことが多かった。また、帝国で活躍したアルメニア人も文化的にはギリシア化していた
  44. ^ これはかつての古代ローマ帝国でも同様であった。民族に関係なくローマ市民権を持っていた者がローマ人であり、アラブ人のローマ皇帝やムーア人(黒人)のローマ皇帝候補者も存在した。
  45. ^ 9世紀末以降の東ローマ帝国の宮廷においては「市民(デーモス)」という役人が雇われていた。彼らの仕事は新皇帝を歓呼で迎えることであり、「ローマ市民の信任を得たローマ皇帝」という体裁を守ることが目的であった。ただし、コンスタンティノポリスの市民は、7世紀のヘラクレイオス帝の後継者争いや11世紀後半の混乱の時代などでは、皇帝の廃立に実際に関与している。これは、建前ながらも皇帝位の正当性が市民にあるという観念が生きていたからである。
  46. ^ 『ローマ法大全』は西欧諸国の法律、特に民法にも多大な影響を与え、その影響は遠く日本にまで及んでいる。また、ブルガリアセルビアロシアなどの正教会諸国では帝国からの自立後も『プロキロン』のスラヴ語訳を用いた。
  47. ^ ブルガリアのように、地方によっては税が物納だったこともある。

出典

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