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昭和金融恐慌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 04:44 UTC 版)

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注釈

  1. ^ こと、士族は商いを蔑視し金勘定をさげすみ、金融に関する知識が乏しいままに銀行経営に携わる例も多かった。
  2. ^ 1890年制定の銀行条例では「第五条 一人又は一会社に対し資本金高の十分の一を超過する金額を貸付又は割引の為に使用することを得ず」と規定されていたが、銀行の強い反対を受けて1895年に撤廃された。
  3. ^ 1914年には約11億円の債務国だったが、1920年には27.7億円以上の対外債権を有する債権国に転換した。
  4. ^ 開戦した1914年の保有正貨は約3億4,000万円だったが、1918年の終戦時には約15億9,000万円となった。
  5. ^ のちの分析では、1920年の大反動が真の戦後不況と考えられている。
  6. ^ 空母鳳翔の改良型。後に第二次世界大戦で活躍した翔鶴とは異なる。
  7. ^ 英国・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガル。
  8. ^ 八八艦隊計画に基づき既に竣工した長門陸奥に続いて、戦艦加賀・土佐、巡洋戦艦天城・赤城・愛宕・高雄、空母翔鶴が建造中であり、戦艦紀伊・尾張の建造命令が発令され起工直前で造船業界は活況を呈していたが、空母に転用される天城・赤城を除き全て中止となった。他にも巡洋艦駆逐艦潜水艦をはじめとする補助艦艇も多くが建造中ないし計画中であったがワシントン海軍軍縮条約を受けて削減されている。
  9. ^ 救援物資を名目として特定物品の輸入関税が免除されたため。
  10. ^ 下関条約で定められた賠償額は銀2億両だが、これに遼東半島返還の報償銀3000万両他を合わせて銀2億3150万両に相当するソブリン金貨3800万ポンド余を在外正貨として受け取った。
  11. ^ 1871年に新貨条例が制定されて以降、日本は制度上は金1.5g=1円とする金本位制であった。しかし金準備金が乏しく金本位制が機能しておらず、本来貿易用であった銀貨が巷間に流通して実質的に銀本位制となり、政府もこれを追認して兌換銀券を発行するに至った。その後26年間の間に国際的銀価格の下落や、国内のインフレが進行して円の価値が金に対しておよそ半減しており、1897年の貨幣法制定時には平価を半分の金0.75g=1円に切り下げた。
  12. ^ 具体的には米国が9月10日に金兌換と輸出停止を発表した翌々日の12日に日本も大蔵省令28号「金貨幣又ハ金地金輸出取締ニ関スル件」を出して暫時金輸出を許可制としたが、許可が出ることはなく、実質的に金輸出禁止となった。
  13. ^ 香港の投機家が中心で、「香港筋」と呼ばれた。
  14. ^ とはいえ、戦禍に見舞われて産業が打撃をうけ、また植民地への影響力が低下したイギリスの国力は衰えてポンドの実勢は安くなったのに対して戦前の平価で復帰したため、ポンドの評価が高すぎ、英国の景気は低迷した。
  15. ^ 例えば加藤高明は三菱から政界に転じ、岩崎弥太郎の娘婿である。
  16. ^ 無産政党等。
  17. ^ 1924年の衆議院選挙では全464議席中、憲政会151議席、立憲政友会100議席、革新倶楽部30議席、政友本党116議席であり、護憲三派を合わせて281議席で過半数であったが、憲政会単独では全議席の1/3にも満たない。
  18. ^ 往時は多かれ少なかれ選挙干渉があり、政権を取った与党が総選挙に打って出て党勢を増す挙にでることもしばしばあった。そもそもが1924年の選挙は言わば選挙管理内閣である清浦内閣の下で行われたのであり、憲政会が政権を握った今選挙を打てば充分に有利であるという期待もあった。
  19. ^ 若槻は「金ができない総裁である」と自覚しており、資金を欠いたまま選挙に打って出て失敗したら取り返しがつかないために選挙を避けたという。
  20. ^ 片岡は前任者の早速に敵愾心を抱いており、彼が成し得なかった不良債権の整理と金解禁を自ら成し遂げる事に意を注いだ。震災手形についても期限を更に1年延長する弥縫策に拠らず震災手形関係二法をもって根本的に解決する道を選んだ。
  21. ^ 東京渡辺銀行、中井銀行、中沢銀行、村井銀行の4行。
  22. ^ a b 特定政商としては、具体的に鈴木商店を念頭においていたと言われる。
  23. ^ 合意文書の中に盛り込まれた「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」が若槻内閣の退陣と立憲政友会への禅譲を表していると言われる。
  24. ^ 大日本帝国憲法第71條では会期中に予算案の成立を見なかった場合には、前年の予算と同額で執行することと定められていた。これは予算の硬直化に繋がり、殊に積極財政を志向する立憲政友会にとっては、次に政権を獲得した際に不自由な政権運営を強いられることから受け容れ難く、予算案を通すために妥協を迫られた。
  25. ^ 法案上程の4〜5日前と言われる。
  26. ^ 憲本提携がなれば270議席弱の新政党となり大命降下を受けるに相応しい党勢となる。そもそも、政友本党は立憲政友会よりも議席数が多い。
  27. ^ 先の三党首会談では立憲政友会に政権を譲ると合意していたにもかかわらずこのような策を弄するのは立憲政友会にとって許しがたい行為と映った。一方で憲政会側は禅譲の合意などしていないとシラをきった。
  28. ^ 具体的には「喜色満面であった」というが、これを伝えたのは大蔵官吏の一人であり、他には類似の伝聞はないと言われる。
  29. ^ 政府が台銀整理委員会を設けて台銀の経営状況を調査し、その経営基盤を盤石にするべく必要な法律を制定して処理する。
  30. ^ 俗に言う "Too big, to fail." 大きすぎて潰せない
  31. ^ 借り換え・ロールオーバーをせず、短期融資の期限が来たものから着々と債権を回収する。
  32. ^ 緊急時に財政上の必要な処分を行う勅令を発し、爾後帝国議会で承認する憲法規定に基づき、政府が2億円の補償をつけることで日銀に特融を行わせる勅令の渙発を求めた。
  33. ^ 憲法70条の解釈として「本条文は天災事変に際しての規定であり、今回は緊急の事態に当らず、臨時議会を召集して法律を制定して対応すべき」との理由を示した。
  34. ^ 討議の中で「コール市場」の語に接して「石炭」の事かと問うた者もいる。
  35. ^ 枢密顧問官の長老格であった伊東巳代治は伊藤博文に付き従って洋行し、帰国後は憲法制定に参画するなど伊藤との縁が深く、その伊藤が結党した立憲政友会に対しても一時期は党籍を置くなど親政友会の立場にあった。こうした事情から、枢密顧問官は政友会に親近感を抱いていた。一方の憲政会は伊藤と対立していた大隈重信の流れを汲む党派であり、これに嫌悪感を抱いていた事も背景にある。
  36. ^ 枢密院と内閣が対立した場合には必ずしも内閣が辞職をする必要はない。しかし、若槻はもはや混乱収拾の手立てを見出せないとして辞職を選択した。
  37. ^ 国会閉会中の緊急事態に際して天皇は法律に代えて勅令を発し、爾後議会で承認する。
  38. ^ 「憲法八条一項ニヨル私法上ノ支払延期及ビ手形ノ保存行為ノ期間延長ニ関スル緊急勅令」4月22日から5月12日までの3週間、預金の引き出しを500円に制限する。
  39. ^ 往時は週休2日制ではなく、土曜日も半ドンではあるが営業日であった。
  40. ^ 乙二百円券。片面のみの印刷に留めて裏が白いところから俗に「ウラシロ」と呼ばれた。一部は実際に預金者に支払われたが、裏面の印刷がなく作りも粗悪であったことから市中で行使しようとしたところ贋札と疑われ、加えて当該銀行券の発行が警察当局に周知されていなかったことから贋札行使の罪で逮捕された事例も伝えられる。この銀行券は事後に日本銀行が急速に回収したため、現在では現存数が非常に少なく、収集家の間では非常に高値で取引されるほどである。なお、同時に裏が白い急造の甲五十円券も刷られたがこちらは使用されなかった。
  41. ^ 往時流通していた最高額面の紙幣は百円券であり、それを上回る額面の紙幣を急遽発行した。尚、二百円券としては関東大震災後の混乱に対応して甲二百円券の発行が準備されたが、これは実際には発行されなかった。
  42. ^ 丙二百円券。裏に赤の紋様が刷られ、俗に「ウラアカ」と呼ばれた。これは預金者に渡らずにそのまま回収、将来の緊急事態に備えて日本銀行に保管され、太平洋戦争終戦後の昭和20年8月16日以後に使用に供された。

出典

  1. ^ 破綻せぬ銀行を破綻したと声明 片岡蔵相口をすべらす 大阪毎日新聞 1927.3.15(昭和2)
  2. ^ 『昭和初年の金融システム危機 -その構造と対応―』伊藤正直
  3. ^ 震災手形による悪化
  4. ^ 武田晴人『現代日本経済史 7』。
  5. ^ a b c d e 『失言恐慌 ドキュメント東京渡辺銀行の崩壊』
  6. ^ 『昭和金融恐慌史』
  7. ^ 中井銀行も休業、渡辺銀行破綻の余波『東京朝日新聞』昭和2年3月19日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p97 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  8. ^ 今度は村井銀行が休業『中外商業新報』昭和2年3月22日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p98-99)
  9. ^ 神戸の六十五銀行も休業発表『大阪毎日新聞』昭和2年4月9日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p99)
  10. ^ 大阪の近江銀行も『大阪毎日新聞』昭和2年4月19日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p99)






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