1993年-2002年とは? わかりやすく解説

1993年 - 2002年

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シネマコンプレックス」の記事における「1993年 - 2002年」の解説

日本市場への各社参入 1993年4月24日神奈川県海老名市日本初本格的マルチプレックスであるワーナー・マイカル・シネマズ海老名開館した同社北米イギリス同様にマルチプレックスという用語を用いていたが、日本市場では以前から存在する複数スクリーン映画館同様にシネマコンプレックス呼ばれた。そして、シネマコンプレックスの定義自体が後にマルチプレックスのことを指すようになる。そのため、現在では同館を日本初シネマコンプレックスとすることが多い。日本国内スクリーン数は減少傾向であったが、この1993年を底に増加転じたワーナー・マイカル進出当初業界内では失敗するものと思われていた。従来館が既に撤退していた海老名には大きすぎる映画館だと考えられていたからである。その後開館した同社サイトについても同様であったしかしながらワーナー・マイカルは主要他社参入する1996年までに7サイト開館し年商44億円以上、1スクリーン当たりの興行収入当時全国平均上回る9200万円という成功収めた。 この成功機に外資の参入が相次ぎ国内各社シネマコンプレックス建設取りかかる外資系AMCエンターテインメントユナイテッド・シネマ ・インターナショナル・ジャパン(以下、UCIジャパン)は1996年東宝松竹1997年東急レクリエーション1998年それぞれ自社系列シネマコンプレックス開館させた。1999年にはさらにヴァージンシネマズ・ジャパン参入し外資系シネマコンプレックスは4社に増えている。 興行各社シネマコンプレックス第1号サイト名運営企業開館日所在地スクリーン備考ワーナー・マイカル・シネマズ海老名(現イオンシネマ海老名株式会社ワーナー・マイカル(現イオンエンターテイメント株式会社1993年4月24日 神奈川県海老名市 7 シネマシティ シネマシティ株式会社 199410月8日 東京都立川市 6 AMCキャナルシティ13(現ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13AMCエンターテインメント 1996年4月20日 福岡県福岡市 13 マイカル松竹シネマズ本牧(後のMOVIX本牧閉館株式会社マイカル松竹 1996年6月29日 神奈川県横浜市 7 マイカル (90%)、松竹 (10%) の合弁。 OTSU7シネマ(現ユナイテッド・シネマ大津ユナイテッド・シネマ ・インターナショナル・ジャパン株式会社 1996年11月2日 滋賀県大津市 7 天神東宝(後のTOHOシネマズ天神本館閉館東宝九州興行株式会社 1997年3月15日 福岡県福岡市 6 MOVIX六甲(後のシネウェーブ六甲閉館株式会社松竹マルチプレックスシアターズ 1997年3月20日 兵庫県神戸市 7 シネマーク・インターナショナルとの合弁109シネマズ港北 株式会社東急レクリエーション 1998年4月25日 神奈川県横浜市 7 ヴァージンシネマズトリアス久山(後のTOHOシネマズトリアス久山、現ユナイテッド・シネマトリアス久山) ヴァージンシネマズ・ジャパン株式会社(現TOHOシネマズ株式会社1999年4月23日 福岡県久山町 7 イオンシネマ久御山 イオンシネマズ株式会社 1999年6月29日 京都府久御山町 7 T・ジョイ東広島 株式会社ティ・ジョイ 2000年12月9日 広島県東広島市 6 各社出店戦略は様々であったAMCエンターテインメント当初九大都市ロードショー地域中心にメガプレックスを計画していたが、後に地方都市郊外型ショッピングセンターにも出店するようになったUCIジャパン地方県庁所在地クラス都市中心に出店計画していった。また、ワーナー・マイカル親会社マイカルショッピングセンター併設する形で計画進め九大都市ロードショー地域である本牧出店マイカル松竹譲り大手映画会社との摩擦避けた。後に親会社自体駅前再開発参画ていったため駅前立地型も増えていく。 東宝グループ有楽町マリオンやシネシックスでの成功元に番組編成しやすい東宝邦画系と洋画系の1・2番手の3スクリーン組み合わせる劇場展開にこだわり続けたため出遅れた。1997年頃からこの方針を転換し5 - 6スクリーンシネマコンプレックス展開しはじめたが、そのころ開館した天神東宝当初定員入替制の導入をしておらず立ち見出していたり、浜大津アーカスシネマはスタジアムシートを導入しておらずフラットな床だったり、サービス面で見劣る部分があった。1998年12月5日にやっと本格的な郊外型シネマコンプレックスとされる鯖江シネマ7を開館させたが、ワーナー・マイカルスクリーン数で国内1位の座を明け渡し外資系他社の買収模索するうになる一方松竹国内興行会社としてはマルチプレックスへの対応が早かった1990年から海外情報収集進め1995年4月にはマルチプレックスシアター開発委員会設立二条駅周辺区画整理事業用地内(現BiVi二条)への1号店進出計画した1996年5月には松竹マルチプレックスシアターズ設立し2000年まで10地区100スクリーン国内スクリーン数が3000越えた時点で1割に当たる300スクリーン目標掲げたしかしながらノウハウ吸収目的として合弁契約をしたシネマーク・インターナショナルとは開発スタンス違い原因合弁契約解消したり、競合会社増加によりテナント契約が困難を極めたりしたため出店計画若干の遅れが発生した東宝系の興行各社松竹マルチプレックスシアターズは、新設され地方ショッピングセンター中心に出店計画立てていった。当時各地開発していたイオン系のショッピングセンター多く含まれた。 逆にヴァージンシネマズ・ジャパン初期計画され名古屋ベイシティ除きイオン系のショッピングセンターへの出店計画行っていない。ジャスコ久御山ショッピングセンター(現イオンモール久御山)の出店決定目前思われていたにも関わらず同社同一コンセプト子会社イオンシネマズ出店させたからとされるまた、後に関東関西駅ビル中心に出店計画行っていくようになった一方イオンシネマズ親会社ショッピングセンター併設する形で計画進めていった。 1999年UCI住友商事角川書店合弁新法人ユナイテッド・シネマ株式会社設立し1999年10月1日開館ユナイテッド・シネマ岸和田以降開館したサイトUCIジャパンではなく同法人での運営とした。住友商事1985年アスミック設立にも参画しているため、この合弁製作・配給から興行まで関わる企業となっている。また、AMCエンターテインメント1999年7月日本法人株式会社日本AMCシアターズ設立し劇場運営移管している。 各地状況 シネマコンプレックス各地展開していくにあたり従来その地方興行行っていた企業反発招いたり、シネマコンプレックス間での競争発生したしはじめた。 青森県弘前市 ワーナー・マイカル進出にあたって従来館からの激し反発があった。地元興行団体だけでなく全国興行生活衛生同業組合連合会まで反対運動行ったが、1994年9月23日ワーナー・マイカル・シネマズ弘前(現イオンシネマ弘前)は開館した結果的に開館当時8館あった従来館のうち6館が1996年までに閉館するだけでなく、ワーナー・マイカル興行的に苦戦強いられたワーナー・マイカル開館後弘前ねぷた参加するなど、地域根付くための活動行っている。 福島県福島市 1996年9月福島フォーラム1998年進出予定ワーナー・マイカルスクリーン数の削減申し入れた1997年4月にはフォーラム側は3万人上の市民署名集めている。また、新聞にはフォーラム閉館危ぶむ声が投書されるなど、映画館同士としての問題だけでなく地元住民反発まで招いたここまで至ったのはロードショー上映収益をあげ、それを原資ミニシアター作品上映していたフォーラムの手法が支持されていた背景がある。分野調整法基づいた調整申請した通産省および厚生省却下され福島フォーラム1997年4月12日フォーラム5、6増設ワーナー・マイカル1998年3月1日ワーナー・マイカル・シネマズ福島(現イオンシネマ福島)を予定通りスクリーン数で開館させ、物別れおわったしかしながら両者とも興行的に共存している。 神奈川県横浜市 前述通り1996年6月29日本牧へのシネマコンプレックス出店松竹との合弁会社であるマイカル松竹が行い、マイカル大手映画会社との摩擦避けた。しかし、3年後1999年9月10日みなとみらい地区への出店ワーナー・マイカルが行った。この地域では馬車道周辺従来館が優先的に新作配給受けたため、ワーナー・マイカル・シネマズみなとみらい(現イオンシネマみなとみらい)の開館時には旧作ばかりが上映される事態となった。しかし、同年12月11日ソニー・ピクチャーズが『ジャンヌ・ダルク』や『ランダム・ハーツ』を封切り同時に配給しこれを機に同館には順次各社から新作配給がされるようになった。なお、これらの作品自社チェーン上映していた松竹東宝ソニー・ピクチャーズ対す制裁措置とも言われる週間での打ち切りやムーブオーバーを行っている。 滋賀県大津市 1996年11月2日開館したUCIジャパンのOTSU7シネマ1998年4月23日開館した東宝直営浜大津アーカスシネマ(現大津アレックスシネマ)は直線距離で1.2kmしか離れていない。外資系国内大手の初の直接対決として注目された。同地域では配給会社によってどちらの劇場配給するかが別れたユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ配給作品はOTSU7シネマ優先に、東宝邦画作品浜大津アーカスシネマを優先配給された。結果的にそれ以外の上巡って劇場で争うことになった福岡県福岡市 1996年4月20日AMCエンターテインメント九大都市ロードショー地域である福岡県福岡市AMCキャナルシティ13開館した上映作品料金設定など具体的な内容開館直前まで発表せず、地元興行会社からはその手法から黒船恐れられた。これに対抗して松竹マルチプレックスシアターズ同地域に進出する報道もあったが、最終的に断念した東宝九州興行同地域の映画館再編し東宝系初のシネマコンプレックス天神東宝1997年3月15日開館させている。なお、当初AMCキャナルシティ13には邦画系を中心に配給されないことが懸念されたが、結果的に配給が行われた。 当時大津市横浜市の例に見られるように、配給会社から配給を受ける上映権を得るために争うことが多かったしかしながら従来は7割程度占めていた従来中心ロードショー館の興行収益比率シネマコンプレックス中心ローカル館に押され2000年には5割近くまで落ち込んでいた。このため配給会社シネマコンプレックスにも配給を行うようになり、洋画系については2000年以降おおよそ地域ではこのような争い見られなくなっていった。そして、大半競合地域では、単純に集客力争っていくようになり、後に邦画3社が従来中心からシネマコンプレックス中心へと軸足を動かす要因にもなっていく。 日本での急増アメリカで破綻 1999年から2001年1月の間にシネマコンプレックス急増する。この2年1ヶ月の間に主な興行会社だけで、ワーナー・マイカル24サイトユナイテッド・シネマが7サイト松竹マルチプレックスシアターズが7サイト東宝および東宝系の六部興行6サイトヴァージンシネマズ・ジャパン5サイト出店をしている。これは、1998年に「大規模小売店舗立地法」が成立したため、旧法である「大規模小売店舗法」の基準計画されショッピングセンター旧法期限である2001年1月までに駆け込み出店したためである。ショッピングセンター併設されシネマコンプレックス結果的に急増するになった2001年1月18日にはロウズ・シネプレックス・エンターテインメント京都市二条二条駅周辺区画整理事業用地内に出店することが京都市より発表された。外資系シネマコンプレックスとして5社目の参入だったが、同年2月15日同社日本民事再生法にあたる連邦倒産法第11章申請し破綻参入実現しなかった。 アメリカで連邦倒産法第11章申請したのはロウズ社だけではなかった。アメリカでは1990年代シェア獲得のためメガプレックスの出店競争加熱した一方年間観客数14億人程度横ばいであったため、採算性悪化していた。各社とも不採算スクリーン閉鎖行ったが、出店資金負担に耐えられず1999年から2001年の間に相次いで連邦倒産法第11章申請することになった日本でも前述通りシネマコンプレックス急増していたため、先行き不安視されるようになる連邦倒産法第11章申請した主な興行会社興行会社申請備考マン・シアターズ(Mann Theatres) 1999年9月17日 後にコロラド・シネマズとカーマイク・シネマズに買収される。 カーマイク・シネマズ(Carmike Cinemas) 2000年8月8日 再建後独自ブランド維持。 エドワーズ・シネマズ(Edwards Cinemas) 2000年8月28日 後にリーガル・エンタテインメント (Regal Entertainment Group) 傘下統合。 ユナイテッド・アーティスツ・シアターズ(United Artists Theatre Circuit) 2000年9月6日 後にリーガル・エンタテインメント傘下統合。 ゼネラル・シネマ(General Cinema Corporation) 2000年10月11日 後にAMCシアターズ (AMC Theatres) 傘下統合ロウズ・シネプレックス・エンターテインメント(Loews Cineplex Entertainment) 2001年2月15日 後にAMCシアターズ傘下統合しかしながら日本での急増流れは一旦歯止めがかかる。AMCエンタテインメントアメリカで厳しい状況対応するため、アメリカ国内への投資集中させた。そのため、日本での出店2000年7月8日開館したAMCイクスピアリ16以降、全く行われなくなったまた、2001年9月14日マイカル民事再生法を申請同年11月22日には会社更生法へと申請切り替えたこの影響での神奈川県川崎駅北口地区第3西街区現川DICE)への出店など、子会社ワーナー・マイカル複数出店計画白紙撤回された。このため、これ以降3年間、同社移転除き新規出店を行うことはなかった。他の各社大規模小売店舗立地法施行されショッピングセンター開発減少したため、特に郊外型出店数は落ち着くようになった2001年以降になると、邦画3社がシネマコンプレックス中心に大きく舵を切り、郊外型代わり大都市ロードショー館が続々シネマコンプレックススタイル変化していくことになった京都四条河原町では京都松竹座SY松竹京映、京都ピカデリー2001年11月22日閉館し翌日MOVIX京都開館東京有楽町では日本劇場日劇東宝日劇プラザ2002年3月2日日劇PLEX(後のTOHOシネマズ日劇)に、大阪梅田北野劇場梅田スカラ座梅田劇場2002年11月23日ナビオTOHOプレックス(現TOHOシネマズ梅田)に生まれ変わっていった。 一方邦画3社がシネマコンプレックスへと舵を切ったことで、系列館として番組配給受けていた従来館は閉館余儀なくされる状況追い込まれていった例えば、2003年3月6日札幌シネマフロンティア開館当たっては、帝国座会館ニコー劇場経営していた天野興業株式会社同年2月末で番組提携契約打ち切られ同年9月5日自己破産申請している。外資系シネマコンプレックスとの競争さらされながらも生き残っていた従来館は、これ以降各地から姿を消していくことになった設備とサービス変遷 予約システム シネマコンプレックス基本的に定員制とっているため、利用客見たい映画完売し見られないと言うリスクがある。そのため、インターネット普及以前ワーナー・マイカル一部などいくつかのシネマコンプレックス電話予約が行われていた。しかし、映画館側の運用煩雑で、需要が高い繁忙期対応しきれない問題があった。このため1997年頃までに電話予約廃止された。 その後2000年アレックスシネマeメール使用して席の予約をし、現地支払うというシステム導入2002年にはヴァージンシネマズ・ジャパンインターネット支払いを行うチケット販売システムVit』を導入したのを皮切りにインターネットでの販売主流になっていった。 座席指定 ワーナー・マイカルAMCエンターテインメントは、座席指定行わない定員入替制を採用していた。また、一部指定席にし一般料金より高め料金設定をする劇場見られた。しかし、1996年11月UCIジャパン開館したOTSU7シネマは全席指定制を採用した。そのため、1998年9月26日公開の『プライベート・ライアン』からワーナー・マイカルは全席指定制を部分採用する形に切り替えた。これ以降シネマコンプレックスでは全席指定制が主流になっていった。さらに、1999年4月23日開館したヴァージンシネマズトリアス久山(現:ユナイテッド・シネマ トリアス久山)はプレミアスクリーンとして座席幅を広くし、サイドテーブルのあるシート採用した付加価値スクリーン設置した。これにより単なる全席指定制では差別化図れなくなり各社とも特徴のあるサービスを行うようになっていった。

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