明治3年 (かのえうま 庚午)
年(年号) | |
●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 |
●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 |
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 |
●1883年 (明治16年) | ■鹿鳴館完成 |
●1889年 (明治22年) | ■大日本帝国憲法発布 |
1870年
(明治3年 から転送)
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1870年(1870 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年。
- ^ 『子どもといく東京ディズニーシー ナビガイド 2015-2016』講談社、2014年、128頁。ISBN 978-4-06-270695-7。
- 1 1870年とは
- 2 1870年の概要
- 3 誕生
- 4 死去
明治3年
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(注)明治5年までは旧暦の日付とする。 明治3年3月3日(1870年4月3日)長崎に回航し[要出典]、4月13日(1870年5月13日)佐賀藩が受領、日進丸と命名した。4月23日(1870年5月23日)佐賀藩から献納の申し出があり、5月14日(1870年6月12日)兵部省が許可、6月22日(1870年7月20日)受領、日進艦となった。『佐賀藩海軍史』によると献艦式を行ったという。乗組員はそのままで、船将の真木安左衛門(真木長義)が同日艦長となった。『海軍省報告書』では4月23日(1870年5月23日)に佐賀藩から献上されたとしている。 7月(1870年7月から8月)機械の修理を行った。同月に普仏戦争が勃発し中立を守るため、7月28日(1870年8月24日)に日進は単独で函館派遣となった。8月9日(1870年9月4日)品海を出港し、函館に回航された。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた。
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明治3年
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「富士山 (スループ)」の記事における「明治3年」の解説
明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(新暦8月24日)に小艦隊3隊を編成、春日丸と富士山、摂津の3隻は赤塚源六(富士山乗艦の予定)の指揮で兵庫港に派遣された。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた。
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明治3年
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明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(新暦8月24日)に小艦隊3隊を編成、春日丸と富士山、摂津の3隻は赤塚源六(富士山乗艦の予定)の指揮で兵庫港に派遣された。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた。
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明治3年
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明治3年4月(1870年5月) 春日丸は鹿児島藩から献納され、船籍が明治新政府に移管され春日(艦)となる。 明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(1870年8月24日)に小艦隊3隊を編成、春日と富士山、摂津の3隻は赤塚源六(富士山乗艦の予定)の指揮で兵庫港に派遣された。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた。 兵庫警備中の9月24日(1870年10月18日)に春日は長崎回航が令達された。長崎は平穏だったため、修理の後に品海へ回航、11月19日(1871年1月9日)品海に到着し、ここで兵部省が船を受領した。その後は横浜港警備の予定とされた。『記録材料・海軍省報告書』によると11月(1870年12月から翌年1月)に春日は修理を完了し横浜に回航、各港警備の応援に回った。
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明治3年
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明治3年(1870年)に政府に献納、同年5月8日(1870年6月6日)に兵部省所管となり第一丁卯(艦)と改名された。『海軍省報告書』では4月29日(1870年5月29日)に山口藩から献上としている。同年5月(1870年6月頃)第一丁卯はイギリスの測量船と共に南海の測量を開始した。測量は11月(1870年12月から翌年1月)に終了し、第一丁卯は神戸に到着した。
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明治3年
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「龍驤 (コルベット)」の記事における「明治3年」の解説
艦は長崎に回航され、明治3年3月(1870年4月)イギリス人(長崎商人トーマスブレッキグロウヴァル)から熊本藩が購入、「龍驤(りょうしょう)」と命名、後に呼称は「りゅうじょう」と変化した。同3月に熊本藩から明治政府に献納の申し出が出され4月12日付(新暦5月12日)で太政官より受け取る旨の返答があった。5月8日(新暦6月6日)に品川沖で領収、あるいは翌年の明治4年(1871年)5月に献上され、兵部省所管となった。『海軍省報告書』によると4月12日(1870年5月12日)に熊本藩から献上とされている。 明治3年(1870年)には横浜港にてイギリス海軍の士官を招き、各艦から選抜された砲手の砲撃訓練を行った。 明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(新暦8月24日)に小艦隊3隊を編成、龍驤と電流丸、延年丸の3隻は中牟田武臣(龍驤乗艦)の指揮で長崎港に派遣された。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた。
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明治3年
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明治3年7月(1870年8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために太政官は7月28日(新暦8月24日)に小艦隊3隊を編成、甲鉄と乾行の2隻は中島四郎(甲鉄に乗艦)の指揮で横浜港に派遣となり、乾行は8月9日(新暦9月4日)品海から横浜に回航した。9月1日(新暦9月25日)一旦品海に戻り、同地で大砲備え付けの達が出された。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた。
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明治3年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 09:17 UTC 版)
明治3年5月(1870年6月頃)にイギリス海軍のシルビア号が南海を測量することになり日本側からは第一丁卯が測量艦として行動、そのための石炭300,000斤の輸送に飛龍丸が使用された。同年7月(新暦8月頃)、開拓使からの要請で樺太まで航海することになり、10月2日(1870年11月13日)午後8時15分品海に帰港した。この10月(新暦11月頃)の時点で船体の腐敗などで修理が必要との申し出が船長から出された。
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明治3年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:44 UTC 版)
大坂丸は6月15日(1870年7月13日)に出港したが、機関の故障が起きて兵庫港で修理を行った。その後に出港して直ぐ故障することを繰り返し、安芸や下関で修理を行い、長崎港に到着、同年秋に同地で修理を行った。 12月(1871年1月から2月)には富士山用のバラストを神戸などへ至急で輸送した。12月13日(1871年2月2日)に大坂丸は横浜港回航の令達が出され、12月15日(1871年2月4日)から同港に停泊した。
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