明治40年ごろの東京の寄席
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1907年(明治40年)に東京市が編集発行した地誌『東京案内』は、明治末の東京を知るのに右に出るものはないとされている著名な出版物である。明治39年末時点の東京がわかる。 きめ細かく網羅的に東京の事物が挙げられている中に、寄席に関する記述もあり、まず東京市内・近郊で寄席の数は計141軒。内訳は、まず講談が、おおむね各区ごとに一つはあり、24軒。当時「色物席」という形で分けていた落語・色物の定席は、75軒。中には、有名な人形町の末廣亭や神田・立花亭、上野・鈴本亭も含まれる。浪花節席は、30軒。神田市場亭(後に入道舘→民衆座)が見られる。まんべんなくあるが、特に下谷区浅草区から本所区、深川区にかけて多く分布している。現在は消滅した義太夫専門の定席が3軒ある。神田・小川亭、日本橋・宮松亭、浅草・東橋亭の名。さらに、祭文の席として下谷・竹町に佐竹亭の存在が確認できるのが、浪花節の歴史の点からも特筆される。この他に、混成の席の中で、内藤新宿に末廣亭(旧・堀江亭。浪曲・色物)、品川に七大黒(色物・義太夫)の存在が確認できる。 という内訳であるが、演目は決して固定されていたわけではなく、多くが家族経営の零細企業であった寄席は、かかる演目は席亭主の意向で自在に変わり、例えば色物席でも年に一度は必ずと言っていいほど義太夫がかかっていたという。 寄席の開演時間については昼席公演は少なく、夜席が多く、その終演は「午後10時から11時に至るを常とし」とある。これにより一人当たりの口演時間が長い講談・浪花節でも「二軒バネ、三軒バネ」が可能であったことがわかる。また各演目別事情・料金等についても触れられている。当時の寄席用語として、付近八丁の寄席の客を奪うほど人気のある芸人という意味で「八丁荒らし」がある(むろん褒め言葉である)。 明治から大正にかけての時期には、寄席で源氏節、八木節、安来節の全国的流行、関西においても河内音頭などが寄席の舞台に登場した。 上席下席の月2回入れ替え制だったものが、客の休日環境の変化で1921年(大正10年)6月、現在に至る10日間興行に変わる。 1926年(大正15年)当時の東京市内の寄席については、日本芸術文化振興会により、ネット上に地図が公開されている。 寄席名の後に「亭」や「席」をつけて呼ぶことが一般的であった。
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