明治40年ごろの東京の寄席とは? わかりやすく解説

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明治40年ごろの東京の寄席

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 08:44 UTC 版)

寄席」の記事における「明治40年ごろの東京の寄席」の解説

1907年明治40年)に東京市編集発行した地誌東京案内』は、明治末の東京を知るのに右に出るものはないとされている著名な出版物である。明治39年時点東京がわかる。 きめ細か網羅的東京事物挙げられている中に寄席に関する記述もあり、まず東京市内・近郊寄席の数は計141軒。内訳は、まず講談が、おおむね各区ごとに一つはあり、24軒。当時色物席」という形で分けていた落語色物定席は、75軒。中には有名な人形町末廣亭神田立花亭、上野鈴本亭含まれる浪花節席は、30軒。神田市場亭(後に入道舘→民衆座)が見られるまんべんなくあるが、特に下谷区浅草区から本所区深川区にかけて多く分布している。現在は消滅した義太夫専門定席が3軒ある。神田・小川亭、日本橋宮松亭、浅草東橋亭の名。さらに、祭文の席として下谷・竹町佐竹亭の存在確認できるのが、浪花節歴史の点からも特筆されるこの他に、混成の席の中で、内藤新宿末廣亭(旧・堀江亭。浪曲色物)、品川七大黒(色物義太夫)の存在確認できる。 という内訳であるが、演目決し固定されていたわけではなく多く家族経営零細企業であった寄席は、かかる演目席亭主の意向自在に変わり例え色物席でも年に一度は必ずと言っていいほど義太夫かかっていたという。 寄席開演時間については昼席公演少なく夜席多く、その終演は「午後10時から11時に至るを常とし」とある。これにより一人当たりの口演時間長い講談浪花節でも「二軒バネ三軒バネ」が可能であったことがわかる。また各演目別事情・料金等についても触れられている。当時寄席用語として付近八丁寄席の客を奪うほど人気のある芸人という意味で「八丁荒らし」がある(むろん褒め言葉である)。 明治から大正にかけての時期には、寄席源氏節八木節安来節全国的流行関西においても河内音頭などが寄席舞台登場した上席下席の月2回入れ替え制だったものが、客の休日環境の変化1921年大正10年6月、現在に至る10日興行に変わる。 1926年大正15年当時東京市内の寄席については、日本芸術文化振興会により、ネット上に地図公開されている。 寄席名の後に「亭」や「席」をつけて呼ぶことが一般的であった

※この「明治40年ごろの東京の寄席」の解説は、「寄席」の解説の一部です。
「明治40年ごろの東京の寄席」を含む「寄席」の記事については、「寄席」の概要を参照ください。

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