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ないとうしんじゅく 【内藤新宿】
品川・千住・板橋とともに、江戸四駅の一。1698年武蔵国豊島郡(現在の東京都新宿区一~三丁目)の高遠藩内藤氏下屋敷の近くに新設された甲州街道の第一宿。宿はずれの追分で青梅街道が分岐。江戸の歓楽地として繁栄、商業も盛んであった。
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内藤新宿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/23 08:50 UTC 版)
内藤新宿(ないとうしんじゅく)は、江戸時代に設けられた宿場の一つ。甲州街道に存在した宿場のうち、江戸日本橋から数えて最初の宿場であり、宿場内の新宿追分から甲州街道と分岐している成木街道(青梅街道)の起点でもあった。現在の住所では、東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目の一帯にあたる。
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- ^ 慶長9年に上高井戸宿・下高井戸宿に分割され、月初から15日までは下高井戸宿が、16日から月末までは上高井戸宿が利用された。
- ^ 補足説明。当時は旅人の多くは徒歩である。また荷物運搬に馬などを使う場合でも、(時代劇の武士の戦闘場面のごとく)走るわけではなく、ゆっくりと進む。出発が遅れたり、道中わずかな不都合があるだけで、4里(約16km)の距離を日中の明るいうちに一気に歩き切れないようなことはしばしば起きてしまう。昔はあちこちに盗賊がおり、日が沈むと身の危険があった。(また、街灯があるわけではないので、月が出ていない夜は漆黒の闇となる。)かような事情で、人々は困っていたのである。
- ^ 『江戸の宿場町新宿』によると、現在の貨幣価値に換算して10億円以上とされる。ただし、1両がどれだけの価値を持つか、という計算は江戸時代と現代で社会の仕組み・生活様式などがまったく異なるため、非常に難しい。
- ^ この地は街道の分岐点であり、茶店や太宗寺の門前町が存在していた。内藤家の領地内であったため、内藤宿と呼ばれており、寛永2年(1625年)には幕府に公認されていたという。なお、太宗寺の正式な創建は内藤重頼から寺地の寄進を受けた寛文8年(1668年)である。
- ^ 『江戸切絵図集成』文久2年(1862年) による。仲町のすぐ北には太宗寺が存在し、仲町の一部には門前と記されている。なお、新宿追分のある上町は現在の新宿三丁目、仲町は新宿二丁目、下町は新宿一丁目にほぼ該当する。
- ^ 『改訂 四谷散歩』による。なお、田沼意次は明和4年に側用人、明和6年に老中格、明和9年1月には老中に就任する。
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