明治3年の総人口と人口資料
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 15:22 UTC 版)
「府藩県三治制下の日本の人口統計」の記事における「明治3年の総人口と人口資料」の解説
以下に複数の資料による明治3年(1870年)調の日本国内の本籍人口をまとめるが、それぞれに欠落や重複がある。原史料の大部分は関東大震災などの火災により焼失しており(焼失しなかった分は国立公文書館に焼残文書として保存されている)、今となっては正確な数字を知るのはほぼ不可能である。なおこれらの資料の数字には北海道開拓使(箱館開拓使)、樺太開拓使の人口は含まれないと見られる。 明治3年(1870年)の日本の総人口出典庚午年概算大江文書千葉県資料明治史要大隈資料統計集誌合計 32,794,897 34,785,321 34,785,321 31,866,389 31,778,595 30,089,401 男 16,733,698 17,586,710 17,586,710 女 16,061,199 17,198,611 17,198,611 府県合計 n.a. 9,731,032 31,866,389 9,701,218 8,906,531 府合計 1,476,189 n.a. 1,475,368 1,476,338 1,475,644 県合計 n.a. n.a. 30,391,021 8,224,880 7,430,887 藩合計 n.a. 24,953,089 (廃藩後) 22,077,377 21,182,870 また各資料の族籍別人口を、明治5年旧暦1月29日(1872年3月8日)調の壬申戸籍の本籍人口と共に以下にまとめる。 明治3年調 族籍別戸数・人口(庚午年概算, 大江文書, 千葉県資料, 統計集誌)内訳戸数(庚午年概算)総人口(大江文書)(千葉県資料)総人口(統計集誌)明治5年調本籍人口(壬申戸籍)宮方 (皇族) 20 28 29 華族 404 3,186 2,251 2,666 士族 231,866 927,859 1,094,890 1,282,167 卒 (卒族) 194,538 945,100 830,707 659,074 地士 3,316 社 (社務, 神職, 旧神官) 44,953 163,140 146,950 102,477 寺 (僧尼) 35,734 227,448 僧 244,869 211,846 尼 6,711 9,621 平民 6,551,426 31,954,821 27,265,638 30,837,271 樺太人員 2,358 その他 539,615 520,451 死刑 1,066 合計 6,551,426 34,785,321 30,089,429 33,110,825 当時の人口を伝える資料は限られており、以下に列挙する。 「庚午年概算」 関山直太郎は、旧大蔵省文書中に「庚午年概算」と称する手書きの統計書類を見出し、男女別人口、族籍別戸数を書き留め公表したが、原本は焼失してしまったと述べている。 明治政府が公式に参加した明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会の日本館の公式ガイド「Notice sur l'Empire du Japon et sur sa Participation a l'Exposition Universelle de Vienne, 1873」では、当時の日本の人口が3287万6134人であると紹介されているが、明治時代に各省の御雇顧問を務めた経済学者パウル・マイエット(Paul Carl Heinrich Mayet)は、これを明治4年(1871年)の人口と考えた。関山は、この数字は明治3年の人口である庚午年概算3279万4897人に明治4年の開拓使の人口約8万人を加えたものだと解釈した。 大江卓関係文書「藩々租税取調」 国立国会図書館憲政資料室が所蔵する大江卓関係文書に収録の資料で、明治3年の人口3478万5321人を族籍別人口と共に記載している。後述の千葉県郷土資料と同様に、明治3年頃に公的に作成された文書を出典とするものと推測される。しかしながら明治5年調本籍人口は3311万0825人であり、集計に重複があると思われる。 千葉県郷土資料「明治初年戸口調」 千葉県図書館所蔵が所蔵する千葉県郷土資料で、明治4年旧暦7月に書き写したとの記載があり、明治初年の人口3478万5321人を族籍別人口と共に記載している。これらの数字は上記の大江卓関係文書とほぼ同じで、共に明治3年頃に作成された公的な文書を出典として作成されたと考えられる。なお全国と府県・藩の集計との差には人口で10万1200人の差があるが、戸数に関しては差がない(3府40県: 200万4796軒、各藩:508万7952軒、全国:709万2748軒)ことから、何らかの誤記と思われる。総人口自体、大江卓関係文書と同様に集計に重複があると思われる。 明治史要「使府県戸口概表」 『明治史要』収録の「使府県戸口概表」に、廃藩置県の実施された明治4年旧暦7月14日(1871年8月29日)付の1使3府302県の戸数・人口(但し開拓使の人口は不記載)が集計されている。しかしながら本表の草稿である、東京大学史料編纂所所蔵『明治史要諸表底本』「府藩戸口調書」には「庚午」の記載と共に3府・261藩・41県の区切りで戸数・人口が集計されており、また他統計との比較からも、『明治史要』「使府県戸口概表」の府藩県別人口自体は庚午年概算と同じ、明治2年、明治3年をベースにした本籍人口と思われる。ただし後述の大隈重信関係資料「府藩県石高人口表」や、統計集誌収録の「人員表」と比較すると、廃藩置県までの府藩県境域の変化、とりわけ大名預地の消滅に伴う人口の組み換えは実施されているようである。「使府県戸口概表」の解説によると、総計663万2173戸3186万6389人は明治5年戸口表に比べて戸数47万5668戸人員124万4332人少なく、おそらく皇族・華族・士族の戸口が加算されず、一部寺院の戸口加算不同があるせいだろうと記載されているが、他統計と比較すると、大多数の府藩県で皇族・華族・死刑の人口が加算されていない一方で、士族の人口は原則として加算されていると推測される。 なお、同じ『明治史要』に収録されている「改置府県概表」には、明治4年旧暦11月22日付とされる府県別人口が記載されているが、記載されていない開拓使、琉球藩を除き、数字は「日本全国戸籍表」記載の明治5年旧暦1月29日(1872年3月8日)付の壬申戸籍を元にした本籍人口と完全に同一である。 大隈重信関係資料「府藩県石高人口表」 早稲田大学図書館が所蔵する大隈重信関係資料に収録されている資料で、明治2年(1870年)調と書かれているが、実際の人口は『明治史要』「使府県戸口概表」や『統計集誌』「人員表」と同一のものが多く、明治2年、明治3年をベースにした本籍人口と思われる。調査対象は3府266藩40県で、多度津藩廃藩の明治4年旧暦2月5日(1871年3月25日)から丸亀藩廃藩の明治4年旧暦4月10日(1871年5月28日)の間に作成されたものであることが伺える。なお記載されている藩別人口、県別人口の合計と藩総人口、県総人口は一致せず、誤記が多数存在する。他統計との比較から、大多数の各府藩県の人口には皇族・華族・死刑の人口が加算されていないと推測される。 統計集誌「人員表」 雑誌『統計集誌』に呉文聡が紹介した廃藩置県前の府藩県別の身分人員表で、元民部省役人の野村文夫から提供を受けた表を転載したものであり、明治3年(1870年)庚午年の調査結果にいくつか明治2年(1869年)の調査結果を補ったという解説がなされている。調査対象は1使3府265藩41県(但し箱館開拓使の人口は不記載)で、丸亀藩廃藩の明治4年旧暦4月10日(1871年5月28日)から龍岡藩廃藩の明治4年旧暦6月2日(1871年7月19日)の間に作成されたものであることが伺える。なお原資料に示されている総人口は3008万9401人(欄外の皇族人員28人を加算すると3008万9429人)で、死刑を除外すると3008万8335人(皇族人員を加算すると3008万8373人)である。 藩制一覧 『藩制一覧』とは修史局によって編纂された「藩制一覧表」を昭和になって出版したものである。「藩制一覧表」は明治2年、明治3年に渡り各藩より上申されたものをまとめたもので、調査対象は280藩である。旧幕府領を主とする政府直轄地、及び幕府直轄の大都市の統計を欠く。また藩制一覧記載の人口構成は曖昧な記述が多く、研究者によっても計算結果に差異が著しく生じるため、本項では他の統計に問題がある場合に限り記載を引用することとする。
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