府藩県三治制下の日本の人口統計
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府藩県三治制下の日本の人口統計(ふはんけんさんちせいかのにほんのじんこうとうけい)は、明治維新から廃藩置県までの府藩県三治制下の明治元年(1868年)~明治4年(1871年)までの日本の人口調査をまとめたものである。
- ^ a b c d 原資料:
- 関山直太郎, 『近世日本の人口構造』, 吉川弘文館, 1958年.
- ^ a b 原資料:
- Commission impériale japonaise de l'Exposition Universelle de Vienne, ’’Notice sur l'Empire du Japon et sur sa Participation a l'Exposition Universelle de Vienne, 1873’’, Yokohama: Impr. C. Levy, 1873年.
- ^ a b c 原資料:
- 国立国会図書館憲政資料室所蔵, 大江卓関係文書, 220, 『藩々租税取調』.
- ^ a b c 原資料:
- 千葉県図書館所蔵, 千葉県郷土資料, 『明治初年戸口調』, 1871年.
- ^ a b c d 原資料:
- 修史局編纂, 『明治史要』, 附録表, 「使府県戸口概表」, 博聞本社, 1876年.
- ^ a b c d e 原資料:
- 早稲田大学図書館所蔵, 大隈重信関係資料, A4361, 『府藩県石高人口表』.
- ^ a b c d e 原資料:
- 呉文聡, 「府藩県所轄並石高」, 『統計集誌』, 5号, pp. 9–22 (1882年).
- 呉文聡, 「人員表」, 『統計集誌』, 8号, pp. 96–107 (1882年).
- ^ a b 『藩制一覧』によると、高松藩の士族1万0122人に地士3563人が、卒族1万7851人に士著之帯刀之分2678人が含まれる。なお高松藩地士は壬申戸籍では讃岐国のみの固有族籍として集計されている。
- ^ 原資料:
- Mayet, P. 「Japanische Bevölkerungsstatistik, historisch mit Hinblick auf China, und kritisch betrachtet」, Deutschen Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens, Vol. 36, pp. 245–264 (1888年).
- ^ a b c d e 原資料:
- 大塚武松編, 『藩制一覧』, 日本史籍協会, 1928年.
- ^ a b 開拓使に関し、『明治史要』は人口を記載していない。また廃藩置県直前に廃藩となった龍岡藩)、徳山藩、大溝藩、津和野藩に関しても、『明治史要』は人口を記載していない。
- ^ 「府藩県石高人員表」では、原文記載の総人口と府藩県別人口の合計が一致しないので、本表中では府藩県別人口の合計値を記載した。また原文では丸亀は藩として扱われているが、ここでは県として扱った。朝日山藩、斗南藩、中野県、本保県、および開拓使に関し、「府藩県石高人員表」は人口を記載していない。
- ^ a b 『統計集誌』の原文では関宿藩の平民人口は1万5552人、飯山藩の士族人口は885人、須坂藩の平民人口は1万0023人、棚倉藩の僧尼人口は153人と記載されているが、各藩の総人口と身分別総人口よりこれらは印刷ミスと判断し、本表の数字を採用した。朝日山藩、斗南藩、林田藩、佐賀藩、中野県、江刺県 (死刑1名のみ)、本保県、および北海道開拓使(箱館開拓使)に関し、『統計集誌』は人口を記載していない。
- ^ a b 原資料:
- 国立公文書館所蔵, 『府藩県高帳』.
- ^ a b 原資料:
- 修史局編纂, 『明治史要』, 附録表, 「知藩事表」, 博聞本社, 1876.
- ^ a b 原資料:
- 東京大学経済学部資料室所蔵, 井上馨関係文書, 『明治四年六月 府藩縣銘簿』.
- ^ a b 『藩制一覧』によると、鹿児島藩と琉球国の人口構成は以下の通りである。
府藩県三治制下の鹿児島藩の地域人口構成 (藩制一覧) 地域 総人口 士族 足軽以下 薩隅日三国 772,354 192,949 579,405 琉球国 124,454 51,751 72,703 合計 896,808 244,700 652,108 なおここでいう琉球とは現在の沖縄県に相当する本琉球のみであり、奄美群島に相当する道之島の人口は、当時の統計では本土側の薩摩国に含まれた(明治12年(1879年)の大島郡成立後は大隅国に編入)。『日本地誌提要』記載の明治6年(1873年)1月1日付の本籍人口では、琉球藩が16万6789人であるに対し、薩南群島(奄美群島)は薩摩国58万6324人中10万8426人である。
- ^ a b 静岡藩に関し、『藩制一覧』記載の清水附名簿は2795人。
- ^ a b 内高と現収納高は以下の資料による。
- 早稲田大学図書館所蔵, 大隈重信関係資料, A1838, 『各藩高並租税調帳』.
- ^ 内高は『青森県史』第6巻, 161-162頁による。
- ^ a b c d 現収納高は『明治史要』「知藩事表」による。
- ^ 徳島藩に関し、『統計集誌』記載人口は他統計に比べて少な過ぎ、平民人口が1桁ずれていると思われる。『藩制一覧』記載の徳島藩の族籍別人口は下記の通りで、総人口は『明治史要』、「府藩県石高人員表」記載の人口と一致する。
府藩県三治制下の徳島藩の族籍別人口 (藩制一覧) 総人口 士族 卒 神職 僧尼 平民 714,022 10,443 20,202 1,787 2,035 679,555 - ^ 現収納高は以下の資料による。
- 早稲田大学図書館所蔵, 大隈重信関係資料, A1831, 『租税取調帳』.
- ^ 廃藩日について異なる数字を記す書もあるが、ここでは『明治史要』(その引用元の『太政官日誌』、『法令全書』等)、『地方沿革略譜』の記載を優先する。
- ^ a b c d e 『太政官日誌』、『明治史要』、『地方沿革略譜』による。『東京官中日記』では明治2年旧暦12月27日(1870年1月28日)に廃藩。
- ^ 一橋藩に関し、『藩制一覧』記載の欄外朱書の数値を総人口(男女合計)、神職人口、僧尼人口として採用。
- ^ 田安藩に関し、『藩制一覧』記載の一季抱(男女合計)194人を卒人口に加算。
- ^ 清水徳川家は徳川昭武が水戸藩藩主となった明治元年旧暦11月25日(1869年1月7日)から、徳川篤守が清水徳川家を相続する明治3年旧暦2月24日(1870年3月15日)まで、当主不在の状態であった。静岡藩藩主徳川家達は、徳川篤守を清水家の後継として知藩事とすることを明治政府に願い出たが、明治2年旧暦12月26/27日(1870年1月27/28日)、一橋家・田安家の藩列罷免が決定された日、却下されている(『太政官日誌』)。篤守が賜家禄を受けるのは明治3年旧暦2月24日(1870年3月15日)である。本項目では『地方沿革略譜』に従い、藩列罷免が決定された日を廃藩の日として記載した。
- ^ 盛岡藩に関し、『藩制一覧』記載の支配地人口を平民人口と解釈。
- ^ 士卒人員150人が分離されていないため、士族の項に合計を示す。
- ^ 長岡藩に関し、『藩制一覧』記載の兵卒159人と郷兵175人を卒人口に加算。
- ^ 高須藩に関し、『藩制一覧』記載の境内ノ者十軒30人を僧尼人口に加算。
- 1 府藩県三治制下の日本の人口統計とは
- 2 府藩県三治制下の日本の人口統計の概要
- 3 脚注
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